本当の菩薩道|スマナサーラ長老の初期仏教Q&A(14 Apr 2024 北とぴあ)#大乗仏教 #解脱 #jtba
Summary
TLDRこのスクリプトでは、人々が「生きることは苦しみである」という真理を理解せずに生きていると指摘し、大乗仏教における「菩薩の誓願」と個人の悟りへの道の間で悩む人々の葛藤が議論されています。科学者らしく問題を理解し、自己を実験対象として探求することが勧められ、形而上学的妄想に陥らず、生きる上での真理を学び、慈しみと競争を緩和させる方法を探求することが重要視されています。また、人間が苦しみに打ち勝たなければならない現実と、宗教的な慰めを受ける欲求、そして個人の責任と努力の必要性が語られています。
Takeaways
- 😀 すべての質問に答えたと思うので、特に質問はないと思います。
- 😃 生きることは苦しみであると理解することが重要です。
- 🙂 大乗仏教では、すべての生命を救うまで自分は悟りを開かないという考えがあります。
- 😌 ブッダは生命を科学的に理解し、発見することを奨励しました。
- 😐 菩薩の誓願は、解脱を目指す者がすべての生命を助けるための道徳的な価値がありますが、形而上学的な妄想に走ってはいけません。
- 😔 観音様や阿弥陀如来などの神仏は、人間の妄想概念であり、実際には助けてくれません。
- 🤔 人生は競争と苦しみに満ちており、その理解と発見が重要です。
- 🙁 慈しみの気持ちを持つことで、苦しみが緩和され、幸せを感じることができます。
- 😊 ブッダの教えは、個人の努力と自己責任を強調しています。
- 😇 最終的に解脱に達するには、個々が自身の努力で達成するしかないという法則があります。
Q & A
「生きることは苦しみである」という真理をどのように理解するべきですか?
-生きることが苦しいとされる真理は、人生における苦痛と困難を認識し、それを受け入れることです。これは仏教の教えとして、人々が苦しみから脱し、悟りを開く道を探求する意義を持つとされています。
「ヴィパッラーサ」とは何を意味していますか?
-「ヴィパッラーサ」とは、顛倒見と訳されます。これは人々が現実を逆さまに見ている状態を指し、例えば生きることが苦しいとされる真理を楽しく、または常楽であると誤解している状況を表しています。
「菩薩の誓願」とはどのようなものですか?
-「菩薩の誓願」とは、すべての生命を救済するまで自身の悟りを追求しないという菩薩の決意です。これは大乗仏教において重要な概念であり、菩薩が他者の救済に優先順位を与える精神を表しています。
阿羅漢と菩薩の違いは何ですか?
-阿羅漢は自己の悟りを追求し、個人的な解脱を目指す者に対して、菩薩は他者の救済と利益を重視し、多くの生命を救済するための悟りを遅らせる精神を持つ者です。
なぜ人々は宗教的な信仰を持つのでしょうか?
-人々は宗教的な信仰を持つことで、苦しみや困難に直面した時に心の慰めや力を受けることができます。また、人生の意義や目的について理解を深めることもできます。
「観音様」とはどのような存在ですか?
-「観音様」とは慈悲と救済を象徴する仏教の神々しい存在です。人々は苦しみや困難に直面した時に観音様を信仰し、心の安らぎや助けを求める傾向があります。
仏教における「業」とは何を意味していますか?
-「業」とは、仏教においては個々人が行う行為や思考が持つ結果や影響を指します。個々人の業は彼らの現在の状況や未来に大きな影響を与えるとされています。
「輪廻転生」とは何を意味していますか?
-「輪廻転生」とは、仏教における死と再生のサイクルを指します。個々人が行う業によって、彼らは異なる存在として再生されるとされています。
なぜ人々は苦しみから脱する必要があるとされていますか?
-苦しみから脱することは、仏教においては人生の最終的な目標とされています。これは個々人が自己の業を理解し、精神的な成長を追求することで達成されるとされています。
「慈しみ」とはどのような感情ですか?
-「慈しみ」とは、他者に対する深い愛情と同情を表す感情です。仏教においては、慈しみをもって他人を思いやる心を持つことによって、穏やかな心と幸福をもたらすとされています。
「顛倒」という言葉は心理学的にどのような意味を持っていますか?
-心理学的な意味では、「顛倒」とは現実を誤解し、逆さまに認識する状態を指します。これは人々が現実を正しく認識できないことによって生じる誤った考え方を表しています。
なぜ人間は「顛倒」を経験するのでしょうか?
-人間は多くの場合、五感や直感に基づいて現実を認識しますが、その認識は常に正確ではなく、時には逆さまになることがあります。これは人間の認識の限界や心理的なバイアスによるものとされています。
「菩薩」になるためにはどのような心構えが必要ですか?
-「菩薩」になるためには、他者の救済と利益を重視し、自己の悟りを遅らせる覚悟を持つことが必要です。また、慈悲喜捨の精神を持ち、他人を思いやる心を持つことが重要です。
「悟り」とは何を意味していますか?
-「悟り」とは、仏教においては真理や人生の深い理解に達する状態を指します。個々人が自己の業を理解し、苦しみから脱するために必要な精神的な成長を意味します。
「極楽道」とはどのような場所ですか?
-「極楽道」とは、阿弥陀仏の教えにおいては、穏やかで幸福に満ちた理想的な場所です。人々はこの場所で悟りを追求し、精神的な平和を得ることができます。
なぜ人々は宗教的な物語を必要とするのでしょうか?
-人々は宗教的な物語を通じて、人生の意義や目的を理解し、心の慰めや力を得ることができます。また、物語は教えや価値観を伝える手段として重要な役割を果たします。
「個人の責任」とは何を意味していますか?
-「個人の責任」とは、個々人が自分自身の行動とその結果に対して責任を持つべきであるということを指します。これは、他人に頼らずに自己の力で問題を解決し、成長するべきだとも言えるでしょう。
なぜ人々は宗教的な信仰を通じて安らぎを求めるのでしょうか?
-人々は宗教的な信仰を通じて、苦しみや困難に直面した時に心の慰めや力を受けることができます。また、人生の意義や目的について理解を深めることもできます。
「精神的な傷」とはどのようなものですか?
-「精神的な傷」とは、心理的な苦痛やトラウマ、ストレスなどによって生じる心の傷を指します。これは身体的な傷と同じように深刻なものであり、時にはより長期間持続する可能性があります。
なぜ心の傷はすぐに治らないとされていますか?
-心の傷は身体的な傷と異なり、時間によって自然と治まるものではない場合があります。心理的な問題やトラウマは、専門家の支援や自己の努力を必要とすることが多く、時間だけでなく適切なケアと治療が必要です。
Outlines
😔 人生の苦しみと菩薩の誓願
第1段落では、人生が苦しいとされている真理と、人々が楽しく、常楽であると錯覚している現実について話されています。仏教における菩薩の誓願と、すべての生命を救うまでの自己の悟りを遅らせるという考え方について触れられています。また、阿羅漢と菩薩の誓願のどちらがより良いかという迷いに答えています。科学者のように問題を理解し、自己を実験対象として探求することが勧められています。
🤔 仏教の教えと人間の本質
第2段落では、生きる上での競争と殺し合いの必要性を理解し、仏教における生命を憐れむことの重要性について述べています。慈しみを持ち、競争を緩和し、幸福感を感じるようになる教えが強調されています。しかし、作者は形而上学的な妄想を避けるべきだと述べ、観音様やエホバなど、人間が作り出した妄想概念について批判しています。
😢 苦しみと救済への願い
第3段落では、人々が苦しんでいるとき、どんな神様でも助けてくれるなら信仰するという人間の姿勢について語られています。仏教の立場から、個人の業とエネルギーで生きていくことの重要性について述べています。しかし、心の痛みはそのままに、子どもの病気や苦しみに対する母親の気持ちが消えることはありませんと指摘しています。
🧐 真理と矛盾の探求
第4段落では、真理を理解するためには、人間が逆さまに理解する顛倒の考え方と、菩薩思考との関係について議論しています。菩薩は誰でもなれる存在であり、慈悲喜舎を通じて生きることの重要性が強調されています。しかし、菩薩の争いや矛盾についても触れ、哲学的思考の限界について述べています。
🙏 救済と個人の努力
第5段落では、精神的に傷ついた人々に対して、まずは安らぎを与え、その後真理を教えることの重要性について話されています。作者は、人々が待つことのできないことや、個人の努力が必要なことを強調しています。また、物語を使って慰めることはあるが、最終的には自分自身が努力し、悟らなければならないと指摘しています。
Mindmap
Keywords
💡ヴィパッラーサ(Vipallāsa)
💡菩薩の誓願
💡悟り
💡輪廻
💡慈しみ
💡競争
💡科学者
💡実験
💡Life(ライフ)
💡顛倒(てんどう)
Highlights
生きることは苦しみであるという真理を理解せずに生き続けていると指摘。
大乗仏教における「菩薩の誓願」と個人の悟りへの道の選択についての迷い。
科学者らしく問題を理解し、発見することが勧められる。
Life(ライフ)とは何かを科学的に調べることがお釈迦様のお教えとして紹介される。
菩薩の概念が理解されず、誤解されていると批判。
輪廻から脱出するまでの助けを求める菩薩の誓願が仏教の教えから遠ざけられていると主張。
人間が作り出した妄想概念としての観音様やエホバの存在について語られる。
生きることが大変であると感じる人間の心理とそれに対応する宗教像の創造について述べられる。
仏教の教えとして「頑張ってください」という言葉の欠如と個人の責任について議論。
子どもの病気に対する母親の苦しみと宗教的な慰めの限界について触れる。
生きる苦しみとそれに対応する妄想的創作物の関係について述べられる。
「生きることは苦しい」という顛倒の見方と心理学におけるその概念について解説される。
菩薩とは「解脱のために生きている」という意味であり、誰もが菩薩になることができると語られる。
菩薩思考と慈悲喜舎の重要性とそれに関連する形而上学的妄想の危険性について警告。
物語としてスリランカでの事件を通じて、真理の目覚めについて語られる。
精神的な傷や苦しみに対する対処法として、優しい言葉と真理の教えの重要性が強調される。
個人の努力が悟りに必要不可欠であるという法則の不変性について語られる。
物語による慰めと真理の教えのバランスについて述べられる。
Transcripts
何かどうしても という質問があったら…
一応 私の今日の説法で
皆様の質問は
全部潰してしまったと思いますけど
ひとかけらもなく
質問者の方)お願いします
長老)はい
質問者の方) 「生きることは苦しみである」という
真理が分からずに
「生きることは素晴らしい」だとか
「常楽である」と
‘Vipallāsa’(ヴィパッラーサ) という「顛倒見(てんどうけん)」で
生き続けていると思うんですけど
やっぱりそこから 脱出しなければいけないって
お釈迦様がおっしゃった と思うんですけど
大乗仏教の文化というか
「菩薩の誓願」というのがありまして
すべての生命を助けるまでは
自分は悟りを開かないということで
預流果(よるか)の悟りに至る前に ストップしてしまう
と聞いたんですけど
阿羅漢を目指すべきなのか
「菩薩の誓願」を目指すべきなのか
どっちが果たして良いのかという 迷いが生まれたんですけど
何か答えはあるのでしょうか?
長老)ある
そんな下らない希望を捨ててください
我々は科学者らしく
この「問題」を理解して
発見する
その実験
自分が生きているのだから 自分が実験対象ですから
それを実験して
それに菩薩やら関係ないでしょう? その場合は
Life(ライフ)とは何なのかと調べて
科学的に調べて 発見する
それがお釈迦様がおっしゃった道で
菩薩やら 何だらかんだら
何を言っているかさっぱり分からない お釈迦様には
そうすると
人々の大事な…
ゴミをね
大事な…
糞(くそ)を批判したことに なってしまいます
こんな風にやりたくはないんですけど
すべての生命を
解脱に達してから 俺は解脱に達するのだと思ったら
生命は…
「無限」だからね
そんな阿呆がいるのかいと
菩薩という
それから
自分でも分かっていないことを
他人に教えられる?
もし そういう菩薩が来て 私のところに
「お前 早く修行して 解脱に達してください」と
「あなたは解脱に達しているのか?」 と聞いたら
「俺は 他の人々がたくさんいるのだから…
そいつらを解脱に達するまで教えます」 と言ったら
「だから あなた分かっていない でしょうに」と
自分で分かっていない(のに)
私が分かっていない数学を
どうやって私はあなたに 教えられますかね?
私が個人的に言えるたとえは 数学…
私は 数学は分からないんです
だから 人に教えられませんよ
だから そういう
あれも一つの この「存在」を
讃嘆するための言葉でしょう?
「菩薩になってありがたいな」とか
輪廻にどっさりと人々を
落とすために
ブッダの教えを
根底から壊してやろうという 企(たくら)みだと思いますよ
ブッダの教えを壊すためには ブッダの教えの中から
カビが出てこないと できないんです
外(そと)の哲学からは 仏教は壊れないんです
だから 中からカビが現れてしまうと
結構きついんです
とにかく人間の妄想の世界だから
それはそんなに…
まず関係ないんです
大乗仏教も 小乗仏教も
テーラワーダ仏教も そういう
組織化したものは
関係ないんです
生きていることが
みんな生きているんです
そのために殺しまくらなくては いけないんです
競争しなくてはいけないんです
それを理解して
発見すれば
だからこの仏教のポイントは 取っているんです
例えば 生命を憐れむ気持ちは
生命プログラムにないものなんです
それをお釈迦様が おっしゃっていたんです
生命を殺しまくるのではなくて
憐れんでみたらどうですか?と
慈しみ(の気持ち)を 作ってみたらどうですか?と
これは
解脱に達するために
この思考を逆に
180度変えるために教えた
教えなんです
だから「生きて行きたい 生きて行きたい」と
競争している人々は
傷だらけで苦しんでいるんです
その人のこころに
慈しみの気持ちも入っておけば
結構 緩和するんです
競争が減って行っちゃうんです
これですごい幸せを感じるんです
真理の方にこころが 入るんです
だから お釈迦様は 慈しみを教えたんです
それを悪用して
すべての生命が解脱に達してから
俺は輪廻転生を脱出するぞという…
まあ…
こんな阿呆な考えあるのかと…
私 個人的な感想…
皆様の信仰に何か言っている わけではないんです
ここまで阿呆がいるのかと
でも 大乗仏教で
「菩薩って有難い存在だ」 と思ったことは
別にどうということはないんです
菩薩思考というのは 生命を慈しむ生き方だから
それは誰にだってやってほしいんです
それは道徳的な価値があるんですが
形而上学的に持って行っては いけないんです
形而上学的な妄想をしちゃうと
妄想… 仏教から見ればね
妄想してしまうと
もっと具体的に見ましょうか
観音様でしょう? Kuan Im(観音様)でしょう?
そんな頭がいかれているのは
人を助けてあげる…
助けてくれたこと
一度もないね
エホバと同じですね
祈っても 祈っても
あめ玉一個もくれないでしょう?
エホバが?
観音様も同じことです
人間が作る妄想概念で
なぜそういう妄想概念を 作るのかというと
結局は「生きることは大変」 だからなんです
「傷だらけ」だからなんです
「お手上げ」という気持ちです
「誰かが来て救済してもらえれば…」
そこまで落ち込んでいるんです
それでこちらは ユダヤ教の文化ではないんだから
観音様やら お不動さんやら
お地蔵さんやら 現れてきたんです
だから人間の気持ち 分かりますよ
みんなもう…
どん底で苦しんでいる という意味なんです
「誰かが助けて!」とか
「俺の力でできないんだ!」と
「できますよ」と
ブッダが言うんです
だから 仏教の特色は
「あなた 頑張ってください」
その言葉は 大乗仏教から
抜けているんです
It is your responsibility.
ダンマパダなんかで はっきり言っています
誰も救ってくれません
「母は子どもを救う」って
できないのだと
子どもに母を救うことは できませんよと
生きているのは 自分だから
何か
「子どもに母を助けることは できません」
「母には子どもを助けることは できません」というと
何となく…
何となく暗く感じるのだけど
事実でしょう?
生まれてきた子どもが まだ4歳か5歳なのに
白血病にかかっている
お母さんは どうすれば良いんですか?
お母さんは どれほど悩むんですかね?
その時は 各宗教のところにも
観音様でも 鬼様でも
Satan(サタン/ザータン)でも
何でも良いんです 助けてくれるならば行くんです
それぐらいどん底に 落ち込んでいる時なんです
それを見ても
生きるということはすごい…
悲しいシステムなんです
そこで我々仏教の立場から見れば
「お母さんは お母さんのエネルギーで お母さんの業(ごう)で生きている」
「子どもは子どもの個人で その人の業で回転していく」と
答えを出したとしても
こころの痛みは消えませんよ
「子どもは病気を治して 長生きして欲しい」という
母親の気持ちは
なくなりませんね
テーラワーダ仏教だけだったら
そこはあんまり問題ないんです
「あなた 何を考えているのか!」 と怒るんです
「馬鹿!」と
「いい加減にしろよ」と
「できるだけのことを やってください」と
「協力しますよ」と
それでも 何もできなくて 亡くなったら
それはそれで…
「人は死にますよ」と
いうことで
厳しく叱る そうすると…
すごく何となく…
ちょっと「まあ…」 という感じになるんです
他の文化では それもできないんです
とにかく人が
どん底
苦しんじゃうと
いわゆる「競争」で
傷(きず) 傷…で
もう身動きできない状態に 傷だらけになる
その時
この身体の傷ではないよ 精神が
そうすると妄想して
神様を作ったり 観音様を作ったり
不動明王を作ったり
阿弥陀如来を作ったり
しますよ
阿弥陀如来がいるならば
連絡先…
知りたいんですね
SMSでもやりたいのだから
"Hello こんにちは"と
人間が作った妄想概念なんです
だから それはこの…
あなたもどん底で傷だらけ だったらどうする?
好きな…
罠(わな)に 嵌(は)まってください それは構いませんが
科学的に言えるのは
私は生きている
この「生きる」ということは どんなものかと
見てくださいということなんです
あなたはいろいろ 勉強しているでしょう?
この「顛倒(てんどう)」という話は 専門用語だからね
この'Vipallāsa' (ヴィパッラーサ・顛倒)は
'Vipallāsa'というのは 何と言いますか
生きることは 苦なのに 楽だと
逆さまに理解する
「すべて無常」なのに
「無常でない」と 逆さまに理解することをね
人間は何でも逆さまに 理解しているのだということで
心理学的に「顛倒(てんどう)」 という単語を使っています
それと菩薩思考は噛み合わないんです
解脱を目指す人は みんな菩薩です
別にすごく珍しいことではないんです
菩薩というのは 'Bodhisatta' (ボーディサッタ)でしょう?
'Bodhi'(ボーディ)って 「解脱」でしょう?
「解脱のために生きている」 という意味なんです
だから 誰だって
まあ何とか解脱…
やってみようかと思ったら
菩薩です その時点から
あるいは 慈悲喜捨… 悟りはちょっと分からない
難しくて
とにかく慈悲喜捨で生きていますよと
それでも 菩薩です
なぜならば
生きる衝動を変えたんだからね
そんなもんです
だから みんな菩薩ですから
それはちょっと論理が成り立たない
菩薩の争いになるんです
「汝 悟りなさいよ」
「お前が…」
「あなたが悟りなさいよ…
俺が菩薩だから」
だから 人間が 妄想して作る哲学では
至って簡単にこの
矛盾
あります
Self-contradictory 英語で言えばね
自分が言った言葉の中に
矛盾が入っているという そういうことです
それで「あぁ これは妄想」 ということが分かるんです
そこで 私が出した いろんなたとえ話とか
人を馬鹿にしたところとかは 抜かして
内容を見てください 矛盾が見つかりますか?と
結構 私も下らない話を たくさん喋りますからね
教えだけって あまりにも重いでしょう?
だから あれやこれやとか
下らない話を あちらこちらに入れて
入れないと
それでそこを抜かして
これはこの坊主の悪口でしょうとか
そこら辺は抜かして 内容だけを見て
何か矛盾あるのかい?と
ないと思います あったら教えてください
勉強します
はい 以上です
答えは まあ一応…
「助けてくれる存在がいる」 と思うことが
自分自身が 精神的な
傷だらけで
身動きができない状態になった ということなんです
その時はもうちょっと 優しくしゃべって
こころが落ち着いたら
真理を語るしかないんです
だからそういうことをやりましたから
いろんなことで 俗世間で苦しんで
ハチャメチャになっている人に まず…
普通に安らぎを与える
それから 真理を教える
ケースごとにあまり 記録していないのだけど
一つだけスリランカで使うケースがあって
お釈迦様がすごい長旅をして
どこか辺(へん)ぴな所の 村に行ったんです
なぜ行ったのかというと その村人の中で
たった一人の人が
真理に目覚める能力を 持っていたんです
その人に指導するために行ったんです
お釈迦様は比丘の弟子たちと 一緒にいたんだから
村人たちは
「すごいこと!村にお釈迦様が来ました」 ということで
お祭りという感じではなくて
「お釈迦様のお食事も…
お釈迦様 托鉢に出なくて良いんです…
我々が 全部のお食事を…
住んでおられる森に 持って行きます」とか
それで何かパーティーをやっていますね
たくさん食事・食べ物を持ってきて
それでお釈迦様や比丘たちは ほんのちょっとしか召し上がらないし
それで みんな「では せっかく お釈迦様から遠く来たのは…
説法するためでしょう」と
思って 待っているんです
お釈迦様は説法しない
でも 人々は待っている
お釈迦様は何か説法しない とにかく…
お釈迦様が狙っていた人が…
来ていないんです
それでその人はどうなったかというと その人が
すごい貧乏な人で
でも ちょっと 田んぼを持っているんですね
田んぼを作るために
他人の牛を借りたんです
田んぼより牛が高いんです インド文化では
そこで 一旦 朝早く仕事をして
牛をちょっと…
餌を食べさせるために 自由にしておいたところで
こいつは どこかへ行ってしまって
この人にとっては もう耐えられない
どうしようかと
牛の持ち主に午後には 返さなくてはいけないんです
だから ずっと牛を探していたんです 森の中で
だから
クタクタに疲れて
朝ご飯も食べられないし 昼も食べていないし
田んぼ仕事もしたでしょう
この人は「ブッダが来たんだから とにかく説法を聞きたい」
その気持ちはずっとあるんです
でもそれより現実的な問題があって
牛が逃げてしまうと 牛のあれ(代金)を払えないのだから
探して 探して…
牛を見つけて
連れてきて 家に縛って
もう説法も終わっているかも…
もう午後だから…
まあそれでも行きますと
クタクタの状態で行ったんです
その人が来ると 何かいきなり
「あ!こっちおいで…
あなたはすごく疲れている…
みんな ご飯とか 残っていないんですかね?」とか
「残っている?」
「この人にご飯あげてください」と
お釈迦様が指令したのだから みんなその人にご飯をあげて
水をあげて
食べさせたんです 食べて
「もう元気になったの?」
「疲れは取れたの?」
「はい そうです」
「では 説法します」と
そこで みんなに説法したんです
この人は 預流果(よるか)に 悟ったんです
他の人々はまあ
「ありがたい話ですねぇ」と思って それで終わりますけど
だから そういう風に
何か問題があると
そこは何とか
手当てしなくてはいけない
誰にだっていきなり
ヴィパッサナー瞑想ということも
できない場合は結構あります
そういうことで生きている上で 我々は…
いろんな競争で
負けてしまって
精神的に
だいたい傷っていうのは 精神的ですよ
我々は身体で競争することは ないのだから 今は
身体で競争というのは そんなに…
誰だって「休んだら治る」と 知っていますから
心の傷は 「休んだら治る」 ものではないんです
傷だらけです
そこはもうどうにもならない状態だったら
何とかそこで
ちょっと落ち着く状態を作ってから
真理を語るんです
そこは普通です
だから
まあ以上です あんまりしゃべる必要はないんです
それで
阿弥陀様に あるいは 菩薩が
悟らせてくれるまで待つならば
永久的に待って
待っているはめになります
「各人が努力しなくてはいけない」 という法則は
誰にも変えられません
阿弥陀様の物語を持ってきたとしても
阿弥陀様には 「極楽道」というんですか
そちらで悟らせることできませんよ
一人一人が(自分で)悟ります そこでも
そんな物語を持ってきても
人を慰めるために
最終的には
人が
ひとり…
生命が
自分で頑張って 悟らなくてはいけないんです
そういうわけで 話は以上でございます
どうも ありがとうございます
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