ブッダの生涯 7(佐々木閑「仏教哲学の世界観」第2シリーズ)
Summary
TLDRこの講義ではお釈迦様の悟りについて深く掘り下げています。講師は、お釈迦様の悟りが伝説的な出来事として語られがちだが、それは後世の人々の願望が反映されたものであり、むしろ人間としてのお釈迦様が人生の中で積み重ねた知恵の集大成であったと説明しています。さらに、お釈迦様の教えの核心は「諸行無常」「一切皆苦」という厳しい世界観にあり、その教えは言葉だけでなく、自らの実践と行動を通して体現されたものであると強調しています。
Takeaways
- 🕉️ブッダの悟りを一つの出来事として捉えるのではなく、長い修行の過程の到達点として捉えるべきである。
- ☸️諸行無常と諸法無我がブッダの教えの中核であり、あらゆるものが無常で本質的実在はないことを示している。
- 🙏仏教は単なる思想ではなく、修行の実践とその生き方そのものが含まれる。
- 💡ブッダの教えは言葉で完全に語りつくせないため、さまざまな形で表れているが、無原則的な解釈は本来の教えからは外れる。
- ⚖️苦しみから解放される道は外に求めるのではなく、自分自身の心を変えることにある。
- 🌐ブッダの教えは一つの固定された形式ではなく、多様な形で表れているが、その根本は明確である。
- 🧘ブッダの悟りには、理論的側面と実践的側面の両方が含まれている。
- 🔍ブッダの教えを理解するには、言葉だけでなく修行僧団の生き方からも学ぶ必要がある。
- ✨ブッダは何も隠さず全てを弟子たちに伝えたと述べており、黙して悟りを得るという考えは本来の教えと異なる。
- 🗺️ブッダの教えを一つの原理として無原則に解釈することは、本来の意図から外れてしまう。
Q & A
お釈迦様が悟った内容とは何ですか?
-お釈迦様は、仏教という教えの中で確固たる一つの世界観と、その中で我々が歩むべき目的を残しました。この世界観と目的、すなわち諸行無常、諸法無我、一切皆苦という教えがブッダの悟りです。
仏教の中にある超自然的な話はどう理解すべきですか?
-超自然的な話は後の人たちが仏教の開祖であるお釈迦様を理想化し、伝説化した結果生まれたものです。これらの話は教えの本質を理解するためのものではなく、歴史的事実として受け取るべきではありません。
お釈迦様の教えの核心は何ですか?
-お釈迦様の教えの核心は、諸行無常、諸法無我、一切皆苦という教えであり、この世界において絶対に頼りになるものはなく、自分自身を変えることによって真の安心や安楽を見つけることができるということです。
お釈迦様が悟りを開いた場所はどこですか?
-お釈迦様は、ブダガヤにある菩提樹の下で悟りを開きました。これは、後の時代にも多くの人が巡礼地として訪れたことから間違いないとされています。
なぜ仏教の教えは一本化して語ることができないのですか?
-仏教の教えは、お釈迦様によって残されたものであり、時間と共に様々な解釈や伝承が生まれました。これらの多様性は、教えを豊かにしていますが、一つの視点だけで語ることはその深みや多面性を無視することになるため、一本化して語ることができません。
仏教が提唱する苦しみからの逃れ方とは?
-仏教では、外の世界を変えることはできないものの、自分自身の心の中から苦しみを生み出す要素を取り除くことによって、苦しみから逃れることができると教えています。
仏教における悟りの実践方法とは何ですか?
-悟りの実践方法は、自分自身を変えること、つまり自分の心を変えることを通じて体験されます。この実践は、言葉で説明される部分も含まれますが、実際に体験し実践することによって、真の悟りに至ることができます。
仏教の教えは何でもいいということなのでしょうか?
-いいえ、仏教の教えは「何でもいい」というわけではありません。お釈迦様は、しっかりとした教えを残されましたが、その深い意味や教えの多様性を理解し、自ら実践することが求められます。
仏教の教えが時間と共に滅びるというのはどういう意味ですか?
-諸行無常の教えによれば、この世の中のすべてのものは変化し、やがて滅びます。仏教の教えも例外ではなく、時が来ればその形を変え、あるいは失われることを示唆しています。これは、すべてが無常であることを受け入れる重要な教えです。
仏教の組織体そのものも悟りの一部だというのはどういう意味ですか?
-仏教の組織体や修行集団は、お釈迦様の教えを実践し、次世代に伝えるためのものであり、これらの活動そのものが悟りの実践としての価値を持ちます。つまり、教えを伝え、実践する過程そのものも悟りの一部とされています。
Outlines
🗣️ お釈迦様の悟りについて
この段落では、お釈迦様の悟りについて説明しています。仏教の教えを一本化して語ることはできませんが、お釈迦様が残された仏教という宗教には確固たる世界観と我々が歩むべき目的があります。お釈迦様の悟りとは、この世界観と目標のことを指しています。しかし、悟りの物語には後世の人々による超自然的な脚色が加えられているため、史実としてそのまま受け取るべきではありません。むしろ、お釈迦様は我々と同じ世界に生まれ、優れた知恵を通して導きの道を見つけた人間であると捉えた方が自然です。菩提樹の下での悟りは、これまでの知恵の集積が完成した瞬間だと考えるべきでしょう。
🌍 仏教の世界観「諸行無常」「諸法無我」
この段落では、仏教の根本的な世界観である「諸行無常」と「諸法無我」について説明しています。「諸行無常」とは、この世のあらゆる存在物が時とともに変容し滅びていくという教えです。「諸法無我」とは、私という実在性や本質はどこにもなく、私は一時的に集まった要素の集合体に過ぎないという教えです。これらの教えは、この世に頼りになるものは何もないということを示しています。自分自身を変えることによってのみ、安楽な状態に至ることができるのです。このように、仏教は厳しい世界観を示していますが、苦しみから逃れる道もあると説いています。
⭕️ お釈迦様の悟りとは?
この段落では、お釈迦様の悟りとは何かについて説明しています。お釈迦様の悟りとは、単に世界観や理屈の世界だけではありません。悟りには、その理屈を実践し、自分自身の心を変えていく活動そのものも含まれています。つまり、お釈迦様が見つけ出した修行の実践的な側面も悟りの一部なのです。さらに、その実践活動の道を継承する僧団組織そのものも、悟りの一部と言えます。ですので、お釈迦様の悟りを言葉で完全に説明することはできず、理屈と実践の両面から理解する必要があります。
⚠️ 誤解「お釈迦様の教えは何でもあり」
この段落では、「お釈迦様の教えは一本化して語ることができない」ということから、「お釈迦様の教えは何でもあり」という誤解が生じることについて警告しています。確かにお釈迦様の教えは言葉で語り尽くせませんが、それは「無限の可能性を秘めている」ということではありません。お釈迦様はしっかりとした規範と理念を持っていました。しかし、この誤解から「お釈迦様の教えは何でも許される」という考え方が生まれ、様々な立場の人々が自分の主張をお釈迦様の教えと結びつけようとしてきました。「沈黙は悟りである」というような詭弁的な教えも、この誤解から生まれたものです。しかし、お釈迦様は黙って何も語らないことを勧めたわけではなく、すべてを語り尽くすことが本懐でした。
Mindmap
Keywords
💡悟り
💡諸行無常
💡諸法無我
💡一切皆苦
💡世界観
💡実践
💡伝説化
💡仏教僧団
💡沈黙
💡詭弁
Highlights
お釈迦様の教えは一本化して語ることができず、様々な形で表れているため、私たち自身がそれを理解していく必要がある。
お釈迦様が残された仏教には、確固たる一つの世界観と、私たちが歩むべき目的が定められている。
仏教の世界観の基礎は「諸行無常」と「諸法無我」であり、どこにも頼りになるものはないということを示している。
苦しみから逃れる道は、自分で心の中の苦しみを生み出す要素を取り除くことにある。
お釈迦様の悟りは、理論的な世界観だけでなく、それを実践する方法も含まれている。
仏教僧団の修行集団とその生き方自体も、お釈迦様の悟りの一部である。
お釈迦様の教えは一本化して語ることはできず、その教えに「何でもいい」という解釈はあってはならない。
お釈迦様は「沈黙」を悟りの姿と言ったことはなく、すべてを伝えることが仏道の指導者の本分であると述べている。
後の人々は、お釈迦様という人物を超人化し、生まれたばかりの赤ん坊が七歩歩いたという伝説を作り出した。
菩提樹の下での悟りの場面も、最も重要な場面だからこそ最大の脚色と演出が盛り込まれている可能性がある。
お釈迦様の人生は人としての人生であり、優れた知恵を使って衆生を導いた道を見つけ出した人物と考えるべきである。
お釈迦様が亡くなった後すぐに、ブッダガヤのボディ樹は巡礼地として多くの人が訪れていた記録がある。
菩提樹の下での悟りは、これまでの知恵の集積が完成した場所であり、突然悟ったわけではない。
伝説の十二支や三禅などとは別に、仏教独自の世界観を追及することが重要である。
お釈迦様は、言葉で説明したことを自ら体験し実践することで悟りを開いた。
Transcripts
皆さんごきげんよう
文等の悟りについてお話を続けています
a 菩提寺の下で分らが何を悟ったのかということに関して
a 様々な仏教の残された晴天を見てもそれは一本化して語れないんだというお話をし
てまいりました
でそうするとそれじゃお釈迦様は何を悟ったのか分からないのかという話になるんです
けれどもそういうわけではありません
決してそういうことではありませんなぜならばそのお釈迦様が残された仏教という一つ
の酋長には確固たる
一つの世界観とそしてその
世界観の中で我々が歩むべき目的というのがカチッと定められているからです
ですからお釈迦様が我々に何を残されたのか何を悟りとしてを時になったのかという
ことになれば当然ながらその
仏教が実際に今 a まあ
保持して
いる守ってきた世界観とそしてその中での我々の生きる目的目標ですね
目指す先これこそが a
ブッダの悟りだということが言えると思うんですね
あの私たちはやはり偉い人を超人化してだんだんこーえー何て言うかな
伝説化していきたいという思いがあるんですねそういう思いの集積が修正が
仏殿という一つのストーリーになっているわけでこの中には様々な
超自然的な
まああのもっとはっきり言うと信じられないような事柄いっぱい変えてあるわけです
例えば
生まれてすぐに赤ん坊のままで七歩歩いたとかねそんなことはあるわじゃあないんです
赤ん坊が7春いてあの
てっこにこんなさせて天上天下とかしゃべるはずがない
だけどもそれは後の人たちがを車
浅間という人を偶像化しそういう人であってほしいとそういう姿こそが仏教の開祖とし
てそれを作った人としてふさわしいというそういう情念ですねそういうものがそういう
話をつくっていくわけで
仏殿のなかにはそういった超自然的なあの奇跡的な話もいっぱい入ってます
ん
それにはまあそれぞれに理由があるんだけどもそれを歴史的事実として特別なことが
起こったんだというふうには我々は取るべきではないしそれを取ったからといってそう
いうふうに理解したからといってそれで仏教信じたことにはならないわけなんですね
でですね何が言いたいかっていうと
菩提寺のしたりをあのしたでお釈迦様が
を悟りを開かれましたというこの話もまたそういう
仏殿の中の1エピソードなということを理解しなくてはいけないんですね
あそこだけは特別なんだとあれはお釈迦様の悟りという特別な場面なんだからあそこ
だけは歴史的事実に違いないというふうに我々が想定する理由は何もないんです
むしろ最も重要な場面だからこそそこには最大の脚色と演出が盛り込まれていると
考える方が自然かもしれません
そう思いますと菩提寺の下にお座りになってそこでハッとその
悟りを開きになってそれが仏教の元になったという話が果たしてそのまま
歴史て技術として受け取ってもよいものかどうかっていうのはやっぱり疑問なんですね
むしろ
6
白われわれと同じ世界に生まれその中で優れた知恵を使って我々みんなをを導いていく
その道を見つけ出した
お釈迦様という人の人生は人としての人生であったと考える方がよほど私としてはあの
後シャカ様に対する
信頼の心が湧くんですね
つまりお釈迦様の言葉に信憑性が出てくるというわけですね
そういうわけで例えばさの菩提寺の下で抑えになった確かにね
菩提樹の下でを悟りを開かれたということは多分間違いないんです
なぜならばお釈迦さまが亡くなってもうすぐ後の時代に
ブダガヤのボディ
第二は仏跡の巡礼地として多くの人が訪れていたという記憶記録がありますので
それは間違いないんだけどもあの
菩提寺の下で貼っと悟って突然
分らになったというのではなくてそれまでの間に蓄積されてきた知恵の集積お釈迦さま
の心の中に
意向次第次第にこうあのつ持って行った
知恵のこの厚い層が最後に
完成したのが菩提寺の下だったという風にとらえた方がよほど私としては自然な
釈迦の電気だというふうに思うんですねはいそれで
でへ
ちょっと前落ち長くなりましたけれども
それでですねそれじゃああのお釈迦様が残された仏教という宗教のあり方から得られる
ブッダの悟りというのはどういうものだと想定できるかということですねまぁ伝説の
その十二支炎にとか3秒とかそういうのとは別個にして仏教という宗教が持つ
独自の世界観つまり者彼がいなければ
なかったであろう車家がこのように現れたから初めて現れてきた世界観とは何かという
ことを訪ねて追及していきますと最終的にはやはりここに行き着くんですね諸行無常
情報
6が一切皆苦です a これはあの仏教のまあ
世界観の一番ベースになるんですね諸行無常
言うまでもありませんが言うまでもありませんが本当にわかっているかどうかはわから
ないですよ
諸行無常ってどういうことかと言いますと
この世の中のあらゆる存在物実在物は
すべて時とともに
変容し公開し滅びていくという教えです
分かりやすいですねそれがいいですね
ただしです
どこにもどこにも好む上でないものはないと言う
大前提の上にこの
言葉を理解しなくてはいけませんどこかに
絶対的な縁に存在するものがあってそれは別個だけれどもそれ以外のものはすべて無常
だというのではないんです
あらゆるものが無情なので
じゃあこの諸行無常という教えも無情なのかというとそのとおりです
商業無常だというこの仏の教えも無情だからこの教えも滅びるんですね
時間が来るとこの牛は滅びます今の今我々の時代はまだ滅びてませんが
ブッダの教えは滅びるんですよ
なぜならばそれも諸行無常だからそこまで徹底して世の中のあらゆるものが本質的に
無情だというのが
省日本部所
そしてそのこの世の中のあらゆる存在物が無常であると同時にその中のどこを探しても
私という私の実在性
私です私という本質はどこにもない
じゃあ私私と思っているこの私は何なんだと言いますとこれは
さん
まあざまな無常なる要素が無常なる要素がね
集まって一時的に集合して作っている集合体を仮に私と呼んでいるだけなんだと
だから今私は私はって言ってるのこれは正しいんですこの私という言い方は正しい
けれども
しかしその私というものはいつまでも実在し同じ形で存在する私はなくて今この瞬間に
集合体として集まっている狩りのボヤンとした姿としての私を意味して私は
私と言ってんです
これが諸法無我ですねつまり諸行無常と諸法無我の
こうまとめて私たちに何を語っているかというと一つとして絶対に頼りになるものは
ないと言ってるんですね
このようにはここにすがっていれば絶対に助かるというようなものは何もないと言って
んです
自分のあの自分自身を救うのは自分自身であるこれは仏陀の教えです
自分で自分を変えるという中に本当の安心な安楽な状態が訪れるのであって
諸行無常諸法無我のこの世界にどこかに手がかりを求めて
まぁ要するに外に自分の救済を求めてもそれは叶わないのだというのが
1尾 c でしょだからこれそれまでのバラモン教の世界の人たちとは全然違う世界観
なんですよ
以上に
シビアーというのかな
厳しい世界観を分らは我々にプチ示すはてです
だから苦しいんだと一切皆苦です
すべては苦しみの上に成り立っているんだと
わずかばかりの楽しみはそれはうたかたのようなその時の一瞬の楽しみであって
ベースはずっと苦しみの上に我々の星は成り立っているというのはねこれが
諸行無常諸法無我委再開しかしそこから逃れる道はあると言うんですね
これ中
あったらもう仏教の存在価値はないんですけど
道はあると
その道は自分で自分の心の中の苦しみを生み出すその要素
消し去って取り去ってこれは本能から生まれてくる恐ろしいその
ですね苦しみへのプロセスですけれどもそれを自分で取り去ることによって自分の心の
中から苦しみ家です外の世界を変えることはできないけれども
うちの心の世界内側の心を変えようというわけですね
これがもしもしねあの
お釈迦さまの教えを通しても何か一つの言葉で教えてくださいを言ってくださいよと
言うならばもうこれが動かしがたい一番ベースになることは間違いないんですね
それで8まあ
5第二のシュタゲのシャカ様のを悟りを
奇縁としてこんな話をしてまいりました仏教の教えというのはあの人ほどでこうです
なんて言えるものではなくてお釈迦さまの心中野にある立体的な極めて複雑生地なる
その世界観全体が仏教なんだと言いましたそれからもう一つ大事なことは
その世界観というまあ要するに理屈の世界ですけれども菊つの世界第二が悟りだと思っ
たら大間違いで
その理屈の世界の中で自分自身を変えていくというこの実践の方法も悟りの一部です
からね
これ注意してくださいねこれはあまり分かっていないん
バカ
あの理解されていないと思うんですが
ブッダの悟りって言うとなんかこうりーなんですね理屈なんですね
これこれこうでこうなんですと四中工なんでこうなんです
我々はこうだからこうしますというふうに何かこう文章で書けるようなそういうもんだ
という風に理解されてますが
お釈迦様というのはあの自分で実践をして
つまり自分
で自分の心を変えるというその体験を自分で見つけ出してその道を音で実践してその
結果として悟りを開いたわけですから
さとりの中にはあの実践というこの実際の活動も含まれるんです
よろしゅうございますか
あの言葉で説明する部分も悟りだけれどもその言葉で説明したものを実際に自分で体験
しやっているその姿ですね
人の形
それも悟りなんですよ
だからお釈迦様はその後ねこの後あの悟りを開いた後にお弟子さんたちにいろんな教え
を説きますがその時に理屈ばっかりと入れたわけじゃありませんよ
このようにしろあのようにしろちて実際に手取り足取り
その
活動そのものを伝授していったわけで
つまりそれはお釈迦様の悟りの一部だからそれを
次の世代にジェネレーションに伝えたわけですよ
よろしゅうございますかそういう意味ではそのお釈迦様のその実践活動の道の延長とし
ての仏教僧団
つまり仏教の経理仏法僧で言いますと3番目のそう
修行集団ですね
あの組織体そのものも実は悟りの一部なんです
ありがとうございますだからお釈迦様の悟りというものをあの
それなんですかって言うまあ聞かれる
性に対してんそれはねー言葉で言えないけれどもまあまあこの諸行無常諸法無我一切
皆苦こういう世界観なんですよ
という説明だけではまだ不十分不十分なのでその世界観の上に乗ってこれこれこういう
姿で組織をつくって一般社会の中で生きていく
そして自分の修行の道を追求していくこの人たちの姿
この縮景し
両者の姿もまた
佐藤利奈んですと悟りの一部なんですという説明にならなければならないわけなんです
ね
なんか喋れば喋るほど難しいになってくるんだけどもう
あの
だからこそ仏教は単なるあの思想哲学ではなくて酋長なんだと
いうのはそこにあの理由があるわけなんですね
てあとあの沈黙は聡いの標準ではないというのはここにちょっと帰って来ましたこれ何
のことか分からないといけませんから簡単に説明をしておきますが
お釈迦さまの教えは
一本化して語ることができない様々なところにいろんな形で解かれているその文堂や
あるいはその姿から我々自身が理解していかなくちゃいけないとこを申し上げました
で
これがねぇ
なんというか変な形で理解されることがあるんですね
つまりお釈迦さまの教えて一本化して語ることができないということはそこからですね
お釈迦さまの教えて何でもいいっていうことじゃないの
まぁ過去呼べば無限の可能性を秘めているということなんじゃないのってこう言うと
なんか説得力でれちゃうけどね
無限の可能性を秘めているというのが釈迦の教えの本質じゃないんですか
これ普通に言えばねなんでもいいんですかという話なんですよ
でこのよこれはもちろん詭弁ですあのお釈迦様はしっかりとした機器と親しそう思って
いたけれどもそれが言葉では語りきれないもんだから語れないだそれがいろんな形で
表れてきたという話であって
お釈迦さまの教えが何でもいいというそんな教えだったということにはならないんだ
けどもそれを
ちょっかいすればそうなるわけなんですねそこからやがて
釈迦の教えというのはどんな方向にでも向かっていいというのが元々の原理なんだと
そういう教えなんだというへんらー
考え方が出てきてそれがいろんなとこエネ過去もそして今もそうですけれども
いろんなところでねああこれあの
どんな教えでもいいっていうことはいろんな人がこれを利用できるということなんです
ね
それぞれの人の違った立場にいるそれぞれの人たちがみんなこれ私たちの立場お釈迦様
の教えといっしょなんですって言えるんですよ
だって何でもいいってお釈迦様言ったんだからということになってくるわけですね
それの一つの代表がねあの沈黙つまり何も語らないところに悟りがあるのだなんていう
おかしなまたこれも詭弁ですけれどもそういう教え
そういう考えにもつながっていってけっこうこれ人気があるんですけれども
をお釈迦様はそんなこと一言も言っておりませんお釈迦様は全てを伝えるのだ
言葉で伝える伝わらないものをそれでも言葉で伝えると
いうことが仏道の指導者の本位であるということをちゃんと言っておられます
私は何も何一つ残さず人に伝えた弟子に伝えたのであるとこうおっしゃってますから
あの沈黙して黙ってればそれが悟りの姿がみたいなこういう音あのお芝居みたいな演出
のようなそういう話は本来の仏教には絶対なかったということはあの強く申し上げて
おきたいと思うんですねはいずいぶん長くなりましたけれども
a
菩提樹の下の悟りの場面だけで何回もお話しいたしましたですね
次回からはもうちょっとあの先へ進んで行きたいと思います
じゃあこれで終わります
こっち
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