ブッダの生涯 6(佐々木閑「仏教哲学の世界観」第2シリーズ)

Shizuka Sasaki
3 Jun 202016:21

Summary

TLDRこの動画は、仏教における重要な概念である「十二因縁」について説明しています。説明者は、この十二因縁が釈迦の悟りの核心を表しているのか、そして釈迦の悟りの真髄をひと言で表すことができないことを示唆しています。さまざまな解釈があり得る十二因縁を通して、事物の本質は言葉で表現するのは困難であり、その本質は対話を通してのみ表れると説いています。この動画は、仏教の教えの深遠さと複雑さを伝えるとともに、言語化の限界についても言及しています。

Takeaways

  • 🙏 仏教における釈迦の悟りの内容について、12因縁説や他の経典での説明があり、統一された見解がない。
  • 🧠 12因縁は無明から始まり、老死に至る苦しみの連鎖を説明する重要な教説だが、釈迦自身がこれを悟ったかは定かではない。
  • 🔍 12因縁の具体的内容にも解釈の違いがあり、言葉で完全に表現することは難しい。
  • 🌐 釈迦の悟りの本質は、特定の言葉で表すことができず、多角的な対応としてのみ表現可能なものである。
  • 🤔 真に深い理解を持つ者は、言葉に詰まることがあり、単純な言葉で説明することはできない。
  • ✨ 釈迦の悟りの本質は、一問一答の問答の中に表れてくると考えられる。
  • 🔑 仏教の教えは、説明や解釈によって形作られるものではなく、実体験を通して理解されるべきものである。
  • 🌍 12因縁などの教説は、仏教の世界観を反映しており、解釈者の世界観によっても変わりうる。
  • 🗣 釈迦の悟りを一言で表現することは不可能であり、そういった試みは本質を損なう恐れがある。
  • 🔭 釈迦の悟りの真髄は、単なる説明文ではなく、多角的な視点から捉えられるべきものである。

Q & A

  • お釈迦さまの悟りの内容は何だったのでしょうか?

    -お釈迦さまの悟りの正確な内容は定かではありませんが、代表的な説として「十二支縁起」が知られています。十二支縁起とは、無明から始まり苦しみに至る12の要素の連鎖を表したものです。しかし、この十二支縁起がお釈迦さまの真の悟りだったかどうかは議論の的となっています。

  • 十二支縁起とはどのようなものですか?

    -十二支縁起とは、12の要素が次々と因果関係を持ち連鎖していく様子を説明したものです。無明から始まり、行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生、そして苦に至る12の段階からなります。この連鎖により、私たち衆生が苦しみに陥る構造を示しています。

  • なぜ十二支縁起がお釈迦さまの悟りだったかに疑問があるのですか?

    -主な理由は2つあります。1つ目は、他の経典では要素の数が12ではなく、4つや5つなど少ない数の連鎖が語られていることです。2つ目は、後世の人々が十二支縁起に付け加えていった可能性があり、お釈迦さま自身の教えかどうか定かでないことです。

  • 十二支縁起の解釈はどのようなものがあるのでしょうか?

    -十二支縁起には歴史の中で様々な解釈がなされてきました。講師の方はその一側面から捉えた解釈を示しましたが、仏教学者など立場によって全く異なる解釈もあり得ます。十二支縁起をどう捉えるかは、捉える側の世界観を反映することにもなります。

  • お釈迦さまの悟りをひとことで表せないのはなぜですか?

    -お釈迦さまの悟りは、長年の修行の積み重ねによって得られた境地であり、単なる説明文ではありません。講師は、ひと言で表現できるものであれば「悟り」とは言えず、そのような悟りの本質は多角的な問答の中にこそ表れてくるものだと述べています。

  • 十二支縁起以外にお釈迦さまの悟りの内容を示す説はありますか?

    -はい、十二支縁起以外にも「三法印」や「四諦」、「六根清浄」といった説があげられています。しかし、それらがお釈迦さま直々の教えなのか、後世の解釈なのかははっきりしていません。お釈迦さまの悟りの本質的な内容については様々な見解が存在します。

  • 講師はお釈迦さまの悟りについてどのように考えていますか?

    -講師は、お釈迦さまの悟りの内容を一言で表現することはできないと考えています。それは簡単な言葉で語れるようなものではなく、お釈迦さま自身の問答の中にしか表れてこない深遠なものだと捉えているようです。

  • 講話の中で強調されていた点は何でしたか?

    -お釈迦さまの教えを一言で表すことはできないということが強調されていました。専門家でさえ、その本質を言葉で表すことが難しいように、お釈迦さまの悟りの境地を言語化することは不可能であり、むしろその本質は問答の中に表れてくるものだと述べられていました。

  • 仏教における十二支縁起の重要性について教えてください。

    -十二支縁起は仏教において極めて重要な教えとされています。苦しみの根源と解脱の道を示すものとして、仏教の歴史の中で大きな意味を持ち、様々な形で言い伝えられてきました。しかし、その本質的な意味合いは「雲に覆われたように曖昧」だと講師は指摘しています。

  • 講師が強調していたことは何でしたか?

    -講師が強調していたのは、お釈迦様の悟りの境地を言語化して一言で表すことは不可能であり、むしろ様々な角度から示された問答の中にその本質が表れてくるということでした。専門家でさえ、その分野の本質を言葉で表すことは難しいと述べ、お釈迦様の悟りの深さを強調していました。

Outlines

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🗣️ 仏教における釈迦の悟りについて

このパラグラフでは、釈迦の悟りの内容について様々な説が存在することが語られています。十二支縁起は釈迦の悟りの代表的な説明とされていますが、他の経典では異なる説明がされているため、悟りの本質については議論が分かれているとされています。十二支縁起の概要が説明され、釈迦がこれを悟ったかどうかについても疑問が呈されています。

05:01

🔄 十二支縁起の説明

このパラグラフでは、十二支縁起の内容が詳しく説明されています。無明から始まり、行為、心、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死へと12の連鎖が語られています。無明から出発し、人間が外界を勝手な思い込みで認識し、判断し、執着を起こすことで苦しみが生じるとされています。しかし、十二支縁起の解釈は人によって異なることが示唆されています。

10:02

❓ 釈迦の悟りを一言で表現することの不可能性

このパラグラフでは、釈迦の悟りを一言で表現することは不可能であると説かれています。専門家は自身の領域の全体像を言葉で表すことができず、質問に答えることで本質が表れるとの考えが示されています。釈迦の悟りも同様に、問答の中にこそ本質が現れるはずだと述べられています。悟りの境地は膨大な全体像であり、一言で表すことはできないということが強調されています。

15:03

✨ 釈迦の悟りを語ることの難しさと今後の展望

このパラグラフでは、釈迦の悟りを語ることの難しさが改めて強調されています。悟りの本質は言葉で表すことができず、問答の積み重ねの中にしか表れてこないと述べられています。十二支縁起をはじめとする説明には様々な解釈があり、悟りの真実を一言で語ることはできません。したがって、今後の展開として、釈迦の教えを問答の中から探求していく必要性が示唆されています。

Mindmap

Keywords

💡無明

無明とは、真実を正しく見ることができない状態、つまり知恵が欠けている状態を指します。この映画では、無明から人間の苦しみが生じるプロセスの始まりとされています。例えば、「無明というのはあの見という字は仏教ではこれは知恵を表します悟りに向かう地えさ、取りを獲得するための優れた知恵のことを見ようと言いますから、無明はそれが無いという意味で我々が我々自身がですね、これはものの真実を正しく見ることができない状態」と説明されています。

💡行為

行為とは、人間が無明に基づいて起こす行動のことを指します。映画では、「我々はそれ(無明)に基づいて石作用を起こし起こし、何かをししてやろうという思いを起こす」と説明されています。つまり、真実を見ることができない状態から間違った認識に基づく行動が生じるということです。

💡

識とは、迷った心の状態を指します。映画では、「もちろん間違った世界観にもとずく思いを起こすわけでそれによって我々の心という状態が生みださいできます今の、我々の、迷った心が生み出されますでその迷った心これが式です」と説明されています。人間が無明から行為を起こし、その結果生じる迷いの心が識なのです。

💡名色

名色とは、人間が心の中で勝手に物事を概念化し分類することを指します。映画では、「名色というんですね名前と色と書いて、これは名前というのは概念かつまり現実の世界には実際に対応していないそれを我々が心の中で勝手に区分をしてこれは公であるというふうに、分類をしてそしてその分類にレッテルを貼ってへ、それで物事を理解しようとするもっと簡単に言うと、言葉の世界なんですね」と説明されています。つまり、名色は言葉による概念化であり、真実とは異なる認識の仕方です。

💡六入

六入とは、人間の6つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)のことを指します。映画では、「6書というのがこれは我々の認識感です、これ六根ともいいますね目耳鼻舌身心、それから触覚とそして心という6種類の人指揮官が6書で」と説明されています。六入は外界の存在物と触れ合い、人間が世界を認識する器官なのです。

💡

触とは、六入が外界の存在物と接触し認識を起こすことを指します。映画では、「この触れるというのは6種類の任意機関が外界に存在する存在物と触れ合ってつまり認識の触れ合いが起こるということです」と説明されています。つまり、六入による感覚情報の受容が触なのです。

💡

受とは、外界からの刺激に対して心が判断や感情的な反応を示すことを指します。映画では、「その刺客として浮かんでくるものに対して我々は、反応をするんだと、どんな反応するかつとああれはいいもんだなあとか、あれは嫌なもんだなあというふうに我々自身の勝手な思い込みで外界のものを、判断していくそうの判断感覚が生じてくるこれを受と言います」と説明されています。受は、触れた対象に対する主観的な価値判断を表しています。

💡

愛とは、外界の対象に執着したり欲求を抱いたりする心の作用を指します。映画では、「でその受が元で、それに対してアーウィーナウアーあれもっと欲しいなぁというあのなんというかなあ、この好むという感じですねそれが好きだわという気持ちが起こってくる、これを愛と言います」と説明されています。愛は、対象を手に入れようとする執着心を生み出し、苦しみにつながるとされています。

💡

取とは、愛からさらに進んで対象を自分のものにしようとする執着の心を指します。映画では、「愛に基づいて執着が起こっている絶対に手放さないぞとか、あるいは何としてでも手に入れるぞと言う、そういう執着が起こってくるこれが取です」と説明されています。取は、愛を超えた強い所有欲や支配欲を表しています。

💡

有とは、人間の存在の有り様全般を指します。映画では、「その取が元になって我々のこの存在、宇都いうものが生じていくこれはですねなんて言うかあの自分のものを手に入れるぞ、アレを自分のものにするぞという風に自分を中心に外界のものを手に入れていこうとするその姿での、生き物のあり方全般を指す言葉が、有なんですね」と説明されています。有は、取に基づいて自分を中心に物事を求める人間の在り方を表しています。

Highlights

十二支縁起は、お釈迦様が悟りの際に体得したとされる重要な教えだが、その内容については諸説あり確定していない。

十二支縁起は12の要素が次第に原因から結果へと連鎖するというドミノ倒し的な構造を描いている。

多くの研究者は、後世の人々が付け足しを重ねて十二支縁起が完成したと考えている。

十二支縁起の内容自体も、それを説明する言葉がなく曖昧なままである。

十二支縁起は無明から始まり、老死に至る過程で人間の苦しみが生じることを説明している。

十二支縁起には様々な解釈があり、解釈次第で逆に解釈者の世界観が反映される。

お釈迦様の悟りの本質を一言で表現することは不可能である。

お釈迦様の悟りは、質疑応答の中にこそ表れてくるだろう。

第一級の専門家は、自身の専門領域の全体を言葉で表すことができない。

専門家が簡単に「◯◯とは△△です」と答えられるようでは、その世界を本当に理解していない。

仏教の教えを一言で言い切ることはできず、問答の応酬の中に仏教の本質が表れる。

お釈迦様の悟りの内容については、諸説があり単一の解釈は難しい。

十二支縁起の12の要素は、無明から老死に至る連鎖を示している。

十二支縁起は後世の人々による付加や解釈の影響を受けている可能性が高い。

仏教の教えの本質は言語化できない立体的なものであり、問答の中に表れる。

Transcripts

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皆さんごきげんよう

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仏殿の

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一番最初でありそしてとても重要な場面である菩提寺の下でのお釈迦様の悟りという

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ことをお話ししています

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さとりの内容は何だったのかということなんですね

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それをあの書き記した残した

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を今日は色々あるんですけれども問題は戦果も申し上げましたようにそれが1本に

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定まっていないということなんですね

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それでへもう一度

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その中のいくつかの代表的なものをここに遭い上げてありますけれども

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一番よく知られているのは

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これまさにその率の一番冒頭に置いてあった

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置かれていた例の際この物でんですね

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あの中で言われているのは a子のお釈迦様は悟りの時に悟ったときに何を会得したの

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かというとこれは十二支炎技なんだと言う

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ことが書かれておりますでその他の別のお経を見ますと

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いやそれは3秒であるとかあるいは六根の清浄化であるというようなことが言われて

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おります

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ダートの2つについては簡単にはご説明いたしましたが

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十二支炎にはおそらくこれを見ておら

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れる視聴者の方の中にもへ

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ご存知の方も多いだろうしどんなもんだろうというふうに興味を持っておられる方も

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おられると思いますので一応

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の十二支縁起の概略だけ申し上げておきます

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えっとですね十二支縁起というのは12の要素が

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次第次第に原因から結果でそれがまた原因となって次の結果を生むという風に

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まあ雄雌1種ドミノ倒しのように原因結果が連鎖して繋がっている様子を語るんです

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ねでこれが12の段階を経て繋がっているのでこれを十二支炎にと言うんです

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でこれがお釈迦さまが本当にを悟りのときにこれを体得なさったのかどうかということ

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は大変疑問であります

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まず一番うちな理由はあの他のお経の中には12時じゃなくてえ

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41とか腰とかもっと少ない数の連鎖を語るものもあるんですね

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ふつうに考えますと短い連鎖が最初にあってそこへだんだん後の人が付け足し付け足し

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をしていって最終的に順位に膨れたんじゃないかというのが非常に自然なモノの見方で

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ありますのでそれを考えると

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お釈迦様が最初に十二支縁起を悟りになったというこの話はやはり

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後々の作られた仏殿の話ではないかというふうに思うんですね

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思う人が多いわけです

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で逆に

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あの十二支炎にはやっぱりお釈迦様を悟りになってあとでそれが省略形になって短く

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なって3誌4誌になっていたんだという考え方も成り立つわけでこのところは非常に

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微妙で大釈迦様の教えとして十二支をそのまま取り上げて良いのかどうか

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お釈迦様の最初の悟りが中

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瀕死だったのかということに関しては実は今もいろんな意見が分かれております

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でさらに問題はこの十二支の内容は何なんだということなんですね

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これここに変えたぷこれ見ただけじゃわからないですね

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でわからないから説明してくださいと尋ねても一つ一つを明確に説明している言葉が

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ないんですね

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ですからこれは

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後の人たちが後のま仏教徒や仏教徒とかあるいは仏教学者がですねこれはああだあれは

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こうだというふうにいろんなことを言うわけなんですね

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ですからそういう意味でこれお釈迦様の里位の内容でございますといって私は今皆さん

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に確信をもってお話しすること

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出来ませんだけどもまぁ一応説明ぐらいはしてくださいと言う

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声が聞こえるような気がしますてそれでそれに答える程度の

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その説明をいただきたいと思いますだからこれはもうこうなんだというふうに絶対的な

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真実だという風な気持ちで思わずにええまあた消防としながら聴いていただいて結構

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ですでへ最初これ無明から始め

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あるんですね無明から始まります

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で無明というのはあの妙という字は仏教ではこれは知恵を表します悟りに向かう地えさ

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取りを獲得するための優れた知恵のことを見ようと言いますから

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無明はそれが無いという意味で我々が我々自身がですね

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a これはものの真実を正しく見る

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ことができない状態

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本当ならばあの世の中の真実はこうだということがあるはずなのにそれを見ることの

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できない状態

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まあ真実に対して目が曇ってしまっている状態ですねこれが無明です

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そこから始まるんですね

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一番最後みてください一番最後が

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老子と書いた後括弧の中に何か

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あの嫌な子がいっぱい並んでますねこれはつまり最後に結論としてどうなるかというと

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我々が年をとって死ぬという准将およびその現象に従って生ずる

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苦しみ心の苦しみ

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みんなつまり十二支炎には無明から始まって最終結論は我々の苦しみだというこれは

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苦しみが生み出される我々が生きている中で苦しんでいる状態を説明する構図なんです

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これが十二支炎位であります

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でこの最初の無明から始まって次の行というのがあのうこれすべて一般に言われている

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ことですからね絶対そうだというわけではありませんが

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a

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ものの真実を見ることのできない磯野

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我々のそのま愚かな状態無明から出発し我々はそれに基づいて石作用を起こし起こし

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何かをししてやろうという思いを起こす

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もちろん間違った世界観にもと

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ずく思いを起こすわけでそれによって我々の心という状態が生みださいできます今の

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我々の

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迷った心が生み出されますでその迷った心これが式です

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でその迷った心から何が生じるかというと名色というんですね名前と色と書いて

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a これは名前というのは概念か

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つまり現実の世界には実際に対応していないそれを我々が心の中で勝手に区分をして

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これは公であるというふうに

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v は耳をしてそしてその分類にレッテルを貼ってへ

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それで物事を理解しようとするもっと簡単に言うと

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言葉の世界なんですねこれ神をで式というのはそれに対応しているだろうと思われて

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いる現実世界のことを指します

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だから心が現実世界とそれを表す言葉の世界というような2種類の世界を生み出して

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いくと

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いうことなんですねでそのあとの6書というのがこれは我々の認識感です

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これ六根ともいいますね1000回言いましたね名耳話した

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それから触覚とそして心という6種類の人指揮官が6署で

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その6所がその後触れ合うという子フレイルという子これは食と読まずに息と読むん

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ですけれども

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a この触れるというのは6種類の任意機関が外界に存在する存在物と触れ合って

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つまり認識の触れ合いが起こるということです

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我々が外界の実在と触れ合ってみん式が生じるということなんです

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その時に名色という心が勝手に作った言葉と現実世界との二重構造の世界をベースにし

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て6種類の人指揮官が

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外界のものを受け入れていきます

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難しい方しますが要するに人間が勝手な思いを持ちながらその勝手な思いで外の世界を

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見ていくということです

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そうすると何が起こるかというとその外界にあるものから我々は刺激を受けて

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情報を受けて例えば目でものを見ると外のものが

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資格として我々の心に浮かんでくるその刺客として浮かんでくるものに対して我々は

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反応をするんだと

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どんな反応するかつとああれはいいもんだなあとか

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あれは嫌なもんだなあというふうに我々自身の勝手な思い込みで外界のものを

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氾濫していくそう

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の判断感覚が生じてくるこれを10と言います

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ウケるね間中ですね

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甘いものが好きな人はケーキを見るとあぁいいなと思うんです

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で辛党の人が目と飲み屋と思うわけなんですね

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それはその人の思い込みで外にあるケーキ自身には何にもそういうことを引き起こす

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要素はないんだけれどもそれを我々の心が生み出して心が独自の判断でそれを受け取っ

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ていくというこれが中です

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でその銃が元で

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それに対してアーウィーナウアーあれもっと欲しいなぁという a

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あのなんというかなあ

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この民好むという感じですねそれが好きだわという気持ちが起こってくる

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これを愛と言います

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入ってすごくいい名前のように思えますがこの12し演技の中では愛は苦しみを

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生み出す

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とても恐ろしい要素の一つですね

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しがみつくんですでその愛に基づいて執着が起こっている絶対に手放さないぞとか

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あるいは何としてでも手に入れるぞと言う

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そういう執着が起こってくるこれが主です

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でその主眼もとになって我々のこの存在

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宇都いうものが生じていくこれはですねなんて言うかあの自分のものを手に入れるぞ

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アレを自分のものにするぞという風に自分を中心に外界のものを手に入れていこうと

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するその姿での

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生き物のあり方全般を指す言葉が

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うなんですね

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でそのあり方から我々一人ひとりのこの

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行き方

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70年80年100年生きるこの

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1世というものが生じていくその結果が

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歳をとって病気になってするこれ自体は悪い事じゃねこれは現象ですわね roth 氏

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は労使は現象ですけれどもその現象が苦しみとしての現象として現れてくるんだと

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いう説明なんです

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でただし今私が皆さんに申し上げているのはこの12審議をあるひとつの側面から捉え

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た解釈なのであって実は仏教の歴史の中では十二支炎にもまた全然違う形で

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あの

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解釈している雪もいっぱいあるし

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今現在現代においてもこの十二支炎にはいろいろな形でいろんな人が違った形で解釈を

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しているんですね

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そういう意味でこの十二支縁起をどう捉えるかというのは実は前も言いましたが捉える

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側の世界観を逆に反映させることにもなるわけなんですね

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だから十二支縁起というのは仏教の世界の中では極めて重要な

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そのもの仏教の歴史の中で大変重大な意味をもちながら悦た言い伝えられったあの

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レンジされてきたのですけれども実はその本体がまるで雲に覆われたようにはっきりし

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ないまま今に伝わっ

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あっているというそういうまあミステリアスな説なんですね

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でまぁそれはそれで置いておきますそれはそれでおいといて

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一方でお釈迦様の

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さとりは何だったのかということなんですが前回も申しました遠い十二支炎にを始めと

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していくつかの違った説もあります

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その十二支炎に一つとってもいくつもの違った解釈があり得るということで

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者がの教えはこれでございますという風にパシッと語ることはできないんですねそして

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play12:59

私はその語ることができないということが釈迦の教えの真実性だろうと思っております

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は事故が起こらないれる

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大丈夫でしょうかね

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前回が失礼を致しました

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このへんね全部張り替えたんです

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そんなことはドイルえっと

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ブッダの悟りをここですね一言で表 new することは不可能に違いないんです一言

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で表現できるものだったら

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プラ悟りとは言えないでしょ

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ただの説明文ですわねでえそれは多角的対応としてのみ表現できるものであるにちがい

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ないわけなんですね

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これあの私まあいろんな人と出会うことがありまして

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あの

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いろんなそれぞれの専門領域がありますわね難しい

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世界があります物理学とかね生物学とか色々あるんでそういう中野正第一級の

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トップクラスの人達とお話をすることもあります

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幸いねそういう運に恵まれることもあるんですがそういうときに感じるのはそういう方

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達は自分達の子が自分がやっている領域かもう頭ないですか

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全部入ってるわけなんですがそれはね全体を言葉で表すことはできないんで

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ですねその人たちにいくらあなたの領域は何ですか教えてください本質は何ですかって

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聞いても

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それは困った顔なさるんですよそれはなぜかというと

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すべてが入っているということはすべての要素が固まって集まって全体として大きな

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立体を作ってそれが頭の中入っているわけでその

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方にその立体を言葉にして125で表せなんていうことは無理なんです

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逆に言うとあなたにとってこれは何ですかぁと聞かれてはいそれは内々でございますと

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いうふうに安易に答える人は実は頭の中にそういう立体が入ってないということになる

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んですね

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昔よく変なリポーターがいてねあなたにとってないないとは何してこうやって

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マイク差し出して聴いてる人がいますがまぁ愚かな質問ですが

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それにまた答えている人もいますよねはいそれは私にとってのなんとかでございますっ

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て言ってんだけども

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本当にその世界がわかってたらそのとき言葉に詰まるはずなんですね

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って言うんですよ

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だってその時頭の中にはもう

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出張大きな立体がぐるぐる回ってるわけでそれを言い得るはずがない相手なんですね

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だからお釈迦様がもちろん何年もかけて積み上げたその悟りの境地というものは

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そのなんとかを者が様の心全体としてそこに存在しているわけですから

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それは

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表 new するためにはおそらくは人が聴いたときにそれに答える質問されたらその

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そのことに対して答えるという

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ここの一つ一つの問答の中にこそその釈迦の本質的な悟りは表れてくるんだろうと思う

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んですね

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もうちょっと喋りたいけどまた時間がきましたのでえ

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続きをまた次回お話をいたします今日は突然ですがここで終わります

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好プレーします5位に

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