2024都市と環境3の3
Summary
TLDRこのスクリプトは、アメリカの都市計画の発展と公園システムの誕生について語ります。19世紀の産業革命と人口増加により、都市問題が顕在化し、都市緑地や公園の必要性が高まりました。ニューヨークのセントラルパークは、1859年に開園し、アメリカで最も多くの人々が訪れる都市公園となりました。また、ボストンでは、緑地、湿地、河川水路などを緑道でつなぐエメラルドネックレスというパークシステムが導入されました。しかし、現代の車社会の中では、緑地間の移動がストレスになる状況になっており、今後の改善が期待されています。
Takeaways
- 🌳 アメリカにはヨーロッパのように封建時代のストックがないため、公園は貴族や王様のお庭から生まれなかった。
- 🇺🇸 産業革命によりアメリカでも都市問題が顕在化し、都市緑地や公園の必要性が高まった。
- 🏙️ ニューヨーク市の人口は1821年から1855年の間に4倍に増加し、セントラルパークの誕生を促した。
- 🔨 セントラルパークは南北約4キロ、東西0.8kmの広大な公園で、1859年に開園した。
- 🏆 フデリックローオルムステッドとカルバートボックスがセントラルパークの設計に携わり、オルムステッドはランドスケープアーキテクトの祖とされる。
- ⛲️ セントラルパークの設計は、当初の計画から徐々に変化し、現在のデザインになった。
- 🌿 パークシステムは、個々の公園を緑道でつなぐことで、都市の緑を効果的に利用する。
- 💚 ボストンでは、緑地、湿地、河川水路などを緑道でつなげ、エメラルドネックレスと呼ばれるパークシステムが導入された。
- 🚗 アメリカの車社会性により、公園間の移動がストレスになる場合があり、今後の改善が期待されている。
- 🌊 ボストンのエメラルドネックレスは、河川の水質改善を目的とした緑地ネットワークとして非常に貴重。
- 📈 20世紀にヨーロッパにも導入されたアメリカ型のパークシステムは、都市の緑地を有効活用し、市民の憩いの場を提供する。
Q & A
アメリカの都市公園の必要性が高まった背景は何ですか?
-アメリカの都市公園の必要性が高まった背景は、産業革命によって19世紀に急激な人口増加があり、都市問題が顕在化したことが挙げられます。これはヨーロッパの都市と同様の現象です。
セントラルパークがアメリカで最も多くの人が訪れる都市公園である理由は何ですか?
-セントラルパークはマンハッタンの中心に位置し、非常に広大な面積を有しているため、自然の中でリラックスできる唯一の場所として多くの人々から愛されています。また、都市の緑空間としての役割も大きいとされています。
セントラルパークの設計に携わったフデリック・ロー・オルムステッドは何人の称号を持っていますか?
-フデリック・ロー・オルムステッドは、ランドスケープアーキテクトという称号を名乗った最初の人であり、アメリカの造園、ランドスケープアーキテクチャー、またはランドスケープデザインの祖とされています。
セントラルパークの建設にはどのくらいの時間がかかりましたか?
-セントラルパークの建設には約20年がかかりました。1857年に工事が開始され、1876年に完成しました。
ボストンのエメラルドネックレスとは何ですか?
-エメラルドネックレスは、ボストンの公園システムであり、個々の公園や緑地、湿地、河川水路などを緑道でつなげたネットワークです。これは都市の緑空間を保全し、河川の水質改善にも貢献しています。
ボストンの公園計画に携わったチャールズ・エリオットはどんな人物ですか?
-チャールズ・エリオットは、メトロポリタン公園委員会の設立に関わり、ボストンの公園計画に携わった重要な人物です。また、フデリック・ロー・オルムステッドの弟子であり、ランドスケープアーキテクチャの分野にも貢献しました。
セントラルパークの敷地はどのような状態でしたか?
-セントラルパークの敷地は、氷河が残した迷子石がゴロゴロ広がる状態でした。そのため、整地と湿地の排水に多大な労力が必要とされました。
セントラルパークの植栽はどのようになされていますか?
-セントラルパークの植栽は、ほぼ人工的に植栽されたものです。当時の植栽は残されておらず、ゼロから植栽されたとされています。
エメラルドネックレスの緑地はどのようになされていますか?
-エメラルドネックレスの緑地は、細長い緑地の帯のような形で、個々の緑地の中を歩きながらも、大きな都市の真ん中にいるというような見事な緑地環境が整備されています。
エメラルドネックレスの現在の問題は何ですか?
-エメラルドネックレスの現在の問題は、緑地と緑地を結ぶ緑道が車道によって切られており、人々が緑地を移動する際に車道を横断する必要があり、ストレスを感じることです。今後、緑地間の接続性を改善する取り組みが行われることが検討されています。
セントラルパークの歴史的意義は何ですか?
-セントラルパークは、都市の中心部に巨大な緑地を導入することで、都市住民の憩いの場を提供し、都市の緑化を促進する意義があります。また、ランドスケープアーキテクチャの分野で先駆的な試みとして、世界中で影響を与えました。
Outlines
🌳 セントラルパークの誕生とアメリカの公園システム
アメリカの都市化と産業革命の進展に伴い、都市問題が顕在化し、公園や緑地の必要性が高まった。ニューヨーク市のセントラルパークは、1859年に開園し、南北約4キロ、東西0.8kmの巨大な公園として知られる。オルムステッドとボックスによってデザインされ、ランドスケープアーキテクチャの祖と呼ばれるオルムステッドが初めて名乗った職業で、セントラルパークの設計を手がけた。また、ボストンでは、公園だけでなく緑地、湿地、河川水路を緑道でつなぐ「エメラルドネックレス」というパークシステムが導入された。
🌿 セントラルパークの歴史と変化
セントラルパークは、1851年に建設が計画され、1858年にオルムステッドとボックスのデザインが選ばれた。当初の設計図から徐々に変化し、現在のデザインになった。公園の敷地は氷河が残した迷子石が広がる場所であり、整地と湿地の排水に多大な労力が要された。オルムステッドとボックスは途中で2度も辞任し、再雇用されたが、約20年をかけて完成させた。公園には森のような空間があり、植栽はほぼすべて人工的に行われた。また、公園には昔氷河が覆っていたとされる迷子石が残され、子供たちの遊び場になっている。
🏞️ エメラルドネックレスの誕生と現代の課題
ボストンの公園計画には、オルムステッドと弟子のチャールズ・エリオットが携わった。1892年にメトロポリタン公園委員会が設立され、緑地だけでなく湿地、河川水路を緑道でつなぐパークシステムが誕生した。エメラルドネックレスは、ボストンの中心部を通って細長い緑地の帯を形成し、市民の憩いの場となっている。しかし、現代では車社会であるアメリカにおいて、緑地間の移動がストレスになる状況がある。そのため、緑地間の接続を改善し、19世紀末に作られた頃のように簡単に歩くことができるようにしようと、現在検討されている。
Mindmap
Keywords
💡セントラルパーク
💡ランドスケープアーキテクト
💡産業革命
💡都市緑地
💡公園システム
💡エメラルドネックレス
💡都市計画
💡緑化
💡迷子石
💡都市問題
💡緑道
Highlights
アメリカの都市には、ヨーロッパのように封建時代のストックがないため、公園の誕生形態が異なる。
19世紀のアメリカでも産業革命により都市問題が顕在化し、公園の必要性が高まった。
ニューヨーク市は1821年から1855年の間に人口が4倍に増加し、都市緑地や公園が必要とされた。
セントラルパークは1859年に開園し、アメリカで最も多くの人が訪れる都市公園となった。
セントラルパークの設計は、ランドスケープアーキテクトであるフデリックローオルムステッドとカルバートボックスによって行われた。
オルムステッドはランドスケープアーキテクチャーの祖とされており、セントラルパークが彼の最初の仕事だった。
セントラルパークの敷地は氷河が残した迷子石で、整地と湿地の排水に多大な労力が必要であった。
セントラルパークの建設には約20年かかって、1858年の設計図から徐々に変化を遂げた。
セントラルパークは南北約4キロ、東西0.8kmの巨大な長方形の公園で、都市の中心部に位置する。
ボストンでは、セントラルパークとは異なり、個々の公園を緑道でつなぐパークシステムが導入された。
ボストンのパークシステムはエメラルドネックレスと呼ばれ、20世紀にヨーロッパにも導入された。
エメラルドネックレスは、緑地、湿地、河川水路などを網羅し、都市の緑地ネットワークを形成している。
ボストンの緑地は、河川の水質悪化問題を改善するために導入された。
エメラルドネックレスは、ボストンの中心部から郊外にかけて細長い緑地の帯を形成している。
エメラルドネックレスは、ボストンにとって非常に貴重な遺産であり、市民の憩いの場として活用されている。
現代のボストンでは、車社会の影響で緑地間の移動がストレスになる状況がある。
ボストンでは、緑地間の接続を改善し、19世紀末の歩行者中心の設計に戻すことが検討されている。
Transcripts
はいそれでは第3部です
次は舞台がアメリカに移りますパーク
システムの誕生です
これまで
ヨーロッパの都市そして公園や緑地につい
てお話をしてきました
アメリカはヨーロッパの都市のような
封建時代のストックがありませんでしたの
で
かつての貴族や
王様のお庭が公園になるということは
なかったんですね
一方でアメリカにおいても同じように
産業革命が起こります
19世紀に急激な人口増加により都市問題
が顕在化するというのはヨーロッパの都市
と同じような現象です
例えば
ニューヨーク市では
1821年から
1855年の間に実に人口が4倍にもなっ
ています
このような状況は先ほどお話してきたよう
なイングランドの都市と同じような状況で
やはり都市緑地や公園の必要性が高まって
きました
そのことが次にお話しするセントラル
パーク誕生のきっかけとなっていきます
そしてこのセントラルパークを踏まえて
次々に講演が整備されていくわけです
けれどもそれらの公園を
幸福院の緑道でつなぐパークシステムと
いうようなものが誕生してきます
セントラルパークの次にお話をします
けれどもボストンでは市全域にパーク
システムを導入しましたこれがエメラルド
ネックレスと呼ばれるものです
このパークシステムは今度は20世紀に
ヨーロッパの年に導入されていきました
まず
ニューヨークのセントラルパークです
これはGoogleEarthの画像です
けれどもマンハッタンのど真ん中に
巨大な長方形の公園があるというのはもう
皆さん行ったことあるかどうか別にして
よくご存知かと思います
このセントラルパークは実に南北
約4キロそして東西0.8km
341ヘクタールという非常に巨大な都市
のど真ん中の公園ということになります
1859年に開園されアメリカで最も多く
の人が訪れている都市公園ということだ
そうです
1851年から本格的に公演建設が
計画され
1858年に
フデリックローオルムステッドと
カルバートボックスの案がコンテストで
選定をされました
最後に書いてますけれどもこの
オルムステッドという方は
初めて
ランドスケープアーキテクトという名称を
名乗った
職能ですね名乗った最初の人と言われてい
てアメリカの造園
ランドスケープアーキテクチャーあるいは
ランドスケープデザインの祖と言われてい
ます
ただ実はこのセントラルパークの設計と
いうのが
オルムステッドがそういったことを初めて
やった仕事だったんですね
あとでも少し写真をお見せしますけれども
セントラルパークの敷地は
氷河が残した
迷子石と言われるような
巨大な石がゴロゴロ広がる死体であったと
言われています
よってその整地そして
湿地の排水に多大な労力が必要であったと
いうことです
1857年に工事が開始され
途中でオロムステッドとボックスが
辞任する実に2回も辞任してまたその後再
雇用ということにがあったそうですけれど
もようやく
1876年おおむね20年かかって
完成しました
これが
1858年一番最初の当時の
設計図ということになります
真ん中に大きな
池があるわけですけれども基本的な構成は
変わらないんですけどもここで言うと左側
の一帯のですね
計画が後のものとは大きく変わっています
はいこちらが1868年のものでして現在
のものにほぼ近いようなものになるわけ
ですけれども
ですので最初の当初の設計からですねその
後徐々に変化をして現在の
このデザインになったということになり
ます
そしてこちらが現在のセントラルパークの
地図ですねパンフレットからとっており
ますけれども
縦書きのものをちょっと横に
置いていますが
こちらと比べるとですね
1868年当時のものが今現在の
セントラルパークになっていることがよく
わかるかと思います
先ほど話したように
東西ここで言うと横に4kmそれから
縦にですね
0.8キロもあるような
巨大な長方形の公園ですので1日で全部
歩くのもなかなか大変なぐらい大きな公園
です
セントラルパークのについては多分様々な
映画で見たりあと実際に尋ねたことがある
方も多いかと思います
巨大な緑地なんですけども特にこの写真に
写ってるように大きな
芝地があるようなところもあってその周囲
をいわゆる
摩天楼が囲んでいる大都市ですね世界の
中枢となるような都市のど真ん中にこう
いった巨大な公園があるということでこれ
も
夏の日に写真を撮っているんですけれども
たくさんの人々がここに集ってるような
親しみられている公園ということになって
います
で公園の中にはこういったいわば森のよう
な空間がずいぶんあるわけですけれども実
はこのような
植栽は当時のものが残されているわけでは
なくてほぼ人工的に
植栽をされたものです先ほどもお話した
ように主体になっていたりこの子にも左に
大きな石が写っていますけども
巨大な石がゴロゴロしているようなところ
でしたのでいわば
植栽はゼロからなされたようなものであっ
たとされます
そしてその
迷子石ですこういった
岩が現在でもあちこちに残っていて子供の
良い遊び場のようにもなっているんです
けれどもこの岩はですねかつてこの一帯を
氷河が覆っていた時に評価によって運ばれ
てきた
迷子石であるとされています
次に
舞台はボストンに移ります
先ほどのオルムステッドはその後様々な
地域の公園あるいはパークシステムの誕生
に関わっていくわけですけれどもボストン
においてもですね同様に人口の急増ととも
に都市問題が顕在化していました
1892年にメトロポリタン公園委員会と
いうものが
設立されて
ゴムステッドとその弟子のチャールズ
エリオットがボストンのですね公園計画に
携わるということになってきます
1893年に最初の5つの地域の土地を
取得をしました
このボストンにおいては先ほどの
セントラルパークのように一つの公園では
なくて
個々の講演だけでなくですね
緑地
湿地
河川水路などを
緑道でつなぐというパークシステムが誕生
することになります
で特にその
理由としてはですねボストンでは
河川の水質悪化が非常に大きな問題になっ
ていたんですねそれを改善するためにも
推計を軸としたアークシステムが電子的に
導入されるということになっておきます
そういったつながれた
緑地のネットワークをボストンにおいては
エメラルドネックレスという愛称で呼ば
れるようになりました
でこちらが1892年の時点のですね
ボストンの
緑地の文法を見てるわけですけれどもほぼ
中心部がボストンの中心街ですね
港にがボストンにあるのでその海側の
ところが中心部ということになるんですが
一番真ん中あたりにある
フェンズと書かれてるあたりがですね最初
のエメラルドネックレスということになり
ます
この辺りですね
これが
1902年にはこのように多くの
緑地が生まれるとともにそれらが
緑道でつながれていくということになり
これが全身的なパークシステムというよう
な
言うように言われるものが形成されていき
ます
これが一番最初の当時のですねエメラルド
ネックレスです実際の現地の看板からとっ
ていますので上が北ではなくて右側が北に
なってるの横に倒したような形になって
おりますそして一番ここで言うと右端の方
がボストンの
旧ボストン市の一番中心部ということに
なります
でこの後現地の写真をご紹介しますけれど
もここで言うと一番右側にですねボストン
コモンというものがあるんですけれども
そこから
スタートしてだんだん少し左上に上がって
いきながらですね
一番最後の写真はジャマイカポンドという
のが上の方にあるんですけれどもそこまで
ご紹介しようと思います
一番ボストンの旧ボストンの死骸に近い
ですね
緑地ということになるんですけども
ボストンコモンという名称がついてますで
この顧問についてはこの後第4部のまた
レッジワースというところのイギリスの
都市の話をしますのでそちらでその顧問に
ついては説明をしようと思います
名称は顧問という名前になっているんです
けれどもいわば公園
緑地と考えて基本的にはいいと思います
でこのような
緑地がですねこれはコモン
ウェルスアベニューモールというふうに
言われているんですけどもこのような
緑道でつながれていくということになって
いますでこの緑道は非常に直線的な
緑道で両側に道路があるというような構造
になってます
そしてこれがバックベイフェンズと言わ
れるとこですこれもいわば
緑地がこう
繋がって細長くなっているようなところな
んですけれどもここにあるような
遊歩道があって市民がこういったところを
散歩したりする
憩いの場となっているところです
そして最後このエメラルドネックレスも
ですね全部歩こうと思うともう本当に1日
以上の日にちがかかりそうなものなんです
けどもこの一番古いメールのネックレスの
中で大きな
湖というか池があるのがジャマイカポンド
と言われているところです
ですのでこういうところ基本的にはこう
細長い緑地の帯のようなところなんです
けども個々の緑地の中を歩いてることに
関しては大きな都市の真ん中にいるという
ことが
想像ができないような見事な
緑地環境が整備されているということに
なります
このエメラルドネックレスはボストンに
とって非常に貴重な
遺産となっているわけですけれどもただ
現在問題がないというわけではありません
これは
2022年のですね
夏に
訪れた時に実際に現地でもお話を聞いたん
ですけれども
先ほどの
緑地から緑地にですね
緑道でつながれてるという風に言いました
が実際にはアメリカは非常に車社会でも
ありますのでそういった緑地と緑地の間を
ですね多くの車道
幸福院の車道が通っていてこの車道もよく
緑化はされているんですけども
緑地から緑地を移動しようと思うと一旦
こういった道路に出てきて車道横断し
なければならないということもあってです
ね自転車で回遊するにしてもあるいは歩い
て回遊するにしても
非常にそれがストレスになるという状況で
もあります
ですのでこれからこういった緑地と緑地の
接続というのをかつて一番最初にですね
19世紀の終わりに作られた頃はですね
まああのそんなに
車社会になっていなかったので簡単に歩く
ことができたわけですけれどもそういった
頃に同封にすれば戻せるのかということを
現在検討しているということでした
第3部は以上です
5.0 / 5 (0 votes)