(20)北海道交通の拠点、小樽市を巡る 【日本一周 船の旅 小樽】
Summary
TLDRこの動画スクリプトは、北海道小樽の歴史と現代の姿を描いた内容です。小樽は、石炭産業と漁業の中心地として栄えた港町であり、衰退した後も観光スポットとして再び注目されています。博物館や歴史的建築、運河公園など、多くの観光地が紹介されており、地域の魅力を伝えるとともに、小樽が経済力を持った都市として維持されている様子が感じられます。
Takeaways
- 🌆 小樽運河は歴史的な観光スポットであり、過去の賑わいを今に伝える美しい景色を提供しています。
- 🚢 北前船は小樽の港に来ていましたが、時代が進むにつれて、苫小牧などの新興港によって取って代わりました。
- 🏰 小樽の豪華な建物は、漁業経営者やその家人のためのものであり、昔の繁栄を今に残っています。
- 🎣 2後店は漁業の中心地であり、その重要性は小樽の経済発展に大きく貢献しました。
- 🚂 鉄道の敷設と石炭の輸送は、北海道の工業化と経済成長に欠かせない要素でした。
- 🌟 小樽は観光都市として再び輝きを放ち、多くの観光客を引き付けています。
- 🏙️ 小樽の港はかつては北海道の物流の中心でしたが、時代の変化とともにその役割は変わりました。
- 🌱 小樽は石炭産業の衰退に直面しましたが、それを乗り越えることで新しい観光地としてのアイデンティティを築きました。
- 🎥 宣伝ビデオは小樽の魅力を広めることに成功しており、観光客の数を増やしています。
- 🌄 小樽の運河公園や博物館は、地域の歴史と文化を保存し、観光客に紹介する重要な場所です。
- 🛳️ 新日本海フェリーは小樽を訪れる観光客にとって、北海道を他の地域に移動する際の便利な手段となっています。
Q & A
小樽の観光地として有名な運河は何ですか?
-小樽運河は、小樽の中心部にある有名な観光地で、明治時代に開発されました。
小樽が経済的な繁栄を享受した理由は何ですか?
-小樽は、石炭産業と水産工業の中心地であり、これらの産業がその経済的な繁栄をもたらしました。
小樽運河周辺に残る歴史的な建物は何ですか?
-小樽運河周辺には、石炭の積み出しや倉庫をするための歴史的な建物が残ります。
小樽の観光業はどのように発展しましたか?
-小樽の観光業は、その歴史的な背景と美しい景色を活用して、宣伝活動を通じて発展しました。
小樽の石炭産業が衰退した原因是什么ですか?
-小樽の石炭産業が衰退した主な原因は、日本の経済成長に伴い、外国からの石炭の輸入がより経済的になったことです。
小樽の運河公園にはどのような歴史的な価値がありますか?
-運河公園には、小樽が発展した際に重要な役割を果たした運河の歴史が残ります。また、博物館が設置され、鉄道や石炭産業に関する展示がされています。
小樽の港でかつて行われていた石炭の輸送はどのようなものか述べてください。
-小樽の港では、石炭を大型の船に積み、全国各地に輸送していました。石炭は鉄道で運ばれ、船に転載されていました。
小樽の歴史的建物を保存する際にどのような課題がありましたか?
-小樽の歴史的建物を保存する際の課題には、建物の老朽化や修復コスト、再利用の方法の見つけ方、そして現代のニーズとの調和が含まれます。
小樽の観光客提到的优点は何ですか?
-小樽の観光客は、その地域の美しい景色、歴史的な建物、親切な住民、そして美味しい食べ物に魅了されています。
小樽の港の歴史的背景をどのように簡潔に述べることができますか?
-小樽の港は、明治時代に開発され、石炭産業や水産工業の中心地として発展しました。その後、経済的な役割は変化し、現在は観光業に重要な役割を果たしています。
Outlines
🏞️ 小樽運河とその周辺
この段落では、小樽運河の歴史とその周辺地域の景観が紹介されています。小樽運河は、北海道の小樽市に位置し、観光スポットとしても人気があります。運河の周辺には、観光客が楽しむことができる多くのお店や博物館があります。また、小樽市は、日本の経済発展に重要な役割を果たした港町であり、その繁栄を今に伝える建物や遺産が数多く残っています。
🚂 鉄道と小樽の発展
この段落では、鉄道が小樽の発展にどのように影響を与えたかが説明されています。北海道の鉄道網の発展に伴い、小樽は港町として栄え、経済的中心地となりました。また、小樽から始まった北海道の鉄道は、石炭輸送のために重要な役割を果たし、その発展を促しました。小樽駅の歴史や、その周辺地域の変遷についても触れられています。
🏗️ 小樽の工業と石炭産業
この段落では、小樽の工業と石炭産業についての情報が提供されています。小樽は、石炭産業の中心地であり、その産物が日本の経済成長に貢献しました。しかし、石炭産業の衰退に伴い、小樽も経済的な衰退を経験しました。博物館や見学施設では、当時の石炭積み出しの様子や、産業の歴史を伝える展示があります。
🛳️ 小樽港と北海道の開發
この段落では、小樽港の歴史的意義と北海道の開發について学ぶことができます。小樽港は、北海道の開發と一同、石炭輸出の重要な拠点となりました。港の建設と発展は、北海道経済の中心地としての小樽の発展に大きく貢献しました。また、小樽港の周辺には、北海道開發の歴史を反映した建物や記念地が数多く存在しています。
🎏 漁業と小樽の文化
この段落では、小樽の漁業とその文化に関する情報が紹介されています。小樽は、漁港として亦しく重要な役割を果たしており、漁業に関連する文化や伝統が色濃く残っています。博物館では、漁師や漁村の生活、そして漁業の歴史について学ぶことができます。また、小樽の食文化や観光スポットにも、漁業の影響が感じられます。
🌆 小樽の近代化と観光業
この段落では、小樽の近代化と観光業の発展について説明されています。小樽は、日本の近代化の波とともに、観光地として徐々に知名度が高まりました。小樽運河や博物館、豪華な建物など、観光資源が豊富で、多くの観光客が訪れています。また、小樽の文化や歴史を反映したイベントや祭りも、観光業の発展に寄与しています。
Mindmap
Keywords
💡小樽運河
💡観光客
💡石炭
💡宣伝
💡北海道
💡経済成長
💡歴史的建物
💡魚
💡観光誘株式会社
💡石炭貨車
💡防波堤
Highlights
観光客で大繁盛し、訪れるお客さんはみんな親切な方ばかりだとの好評を得ている。
スーツチャンネルを使った宣伝が効果的であること。
北海道の小樽運河が有名な景色として紹介されている。
過去の賑わいと現在の静けさを比較し、港の変遷を振り返る。
小樽が政府によって開発された歴史的背景。
小樽港の重要性と、それが日本経済に果たした役割。
戦前の小樽の賑わいと貢献を詳述。
小樽運河の内陸への影響と、それによる物資の運搬。
観光都市としての小樽の変化。
運河が小さくなった理由とその影響。
小樽の経済的衰退とその原因。
昔の建物が多く残る小樽の特色。
北海道の開発における小樽の役割。
石炭産業の衰退とそれに伴う小樽の変化。
観光としての小樽運河とその歴史的価値。
小樽が観光地としていかにして生き残っているか。
Transcripts
当社の動画で宣伝をすれば観光客で大繁盛
しかも訪れるお客さんはみんな親切な方
ばかりだと取引席の皆さんからもご好評を
いただいておりますスーツチャンネルを
使った宣伝は観光有地株式会社ま僕の会社
なんですけれもここにお任せください
ませ
ぐるりと同等の見物をえてまた戻ってき
ました北海道は知辺小樽運河です有名な
景色ですね港へ出てきました昔の賑い用は
凄まじかったそうです今はというとそれ
ほどではありませんが自動車運搬をしてる
のかあの船が
へえあれを海外へ持ってくんですかね
ナンバーもついてないみたいですまそり
そうかこの北海道タ明治時代に北海道の源
に目をつけた政府によってどんどん開発を
められまして札幌を本当はま道長の所在地
とするということは決まってはいたんです
けれどもしかしま地図を見ていただければ
分かりますが札幌にはこのように港が近く
にありません一番近くにある良い港町とし
て目をつけられたのがこの小樽でした日本
優先に大阪小鮮になたる船会社が続々と
出入りをしていたこの小樽の港今でもその
岩壁は姿を変えていないということが
分かります昭和10年にこれを作ったん
ですね当時の内務大臣がこれを書いたそう
ですこの港のとろ沖合い見るとですね
ずらっと横1000に立派な防波堤があれ
も相当古いやつです総力を上げて建設され
まして安定して北海道の外へ重要な貨物を
大量に遅れるようになりました日本経済に
果たした効果も大きかったでしょうこの
駐車場越に奥を見るとまっすぐ小樽駅まで
道が続いています小樽港の岩壁はどれも
とても古いです砂利がたくさん混じられた
古い時代のコンクリートまあ戦前のやつ
でしょう本当に戦前のオタル州は今とは
もう全違うとんでもない賑用であったそう
ですここがですね海と繋がっているわけ
ですけれどさらに内陸の方向に運河がその
まま掘り込まれていまして内地から
送り届けられてきた様々な物資がここに
到着しまたさらに鉄道で札幌へ運ばれて
いくということになるわけですね戦前の
華やかなこの樽の貢献がここに描かれてい
ますこれがさっきの岩壁に到着した大型線
ですねよく見るとそこからですねたくさん
の貨物がこんな風にしてクレーンで下ろさ
れていて下にはこの水深の浅い運に入ため
の大量の橋が止まりまくっていますすごい
数ですよねでそれがまたそれぞれうようよ
動いてきてこの運河に到着し倉庫と橋渡し
をして2をしていたわけですこの場所コス
がまさにここなのですねもう大樽には橋
すら一石も残ってはいませんが倉庫にです
ね今でもその橋と橋渡しをしていた扉が
全部開け放たれていまして観光客を楽しま
せていますタはもはや経済都市ではあり
ませんが観光の都市として立派な地を維持
していますで見ていただくとですねよく
考えれば分かると思うんですがこれらの
倉庫の大きさに対して運河があまりにも
小さすぎ
ますこんな大きな倉庫に物を入れるのに
はけも相当なサイズで来るわけですよ
あそこに観光線が止まってますけどね観光
客を乗せるならあのサイズでいいでしょう
があの貨物の扱いをするのは遊びじゃない
んですからもっと立派なバーンと大量に
積んだものが来るわけですそうすると端が
すれ違うことするちょっとままならない
ぐらいの川幅なんじゃないかなと思うん
ですがなんでこんなに運河が小さいのかと
言とこれはこっちを埋め立ててしまった
からです元々はこの倍ぐらいの幅があった
らしいですもう使わないからですねだから
埋め立てちゃって道路に変えた方がいいと
いうことで大太は歩いているとちょっと
衰退の歴史を感じざるを得ませんこのよう
に物の集まるオタルは北海道を代表する
経済都市だったのですが戦後は完全に衰退
したわけでしたその繁栄はもう見る影も
ないと言いそうな流れですが見る影は
めちゃめちゃあります当時の立派な建物が
ほとんど残っているのすごいですよね町が
経済都市としての地位を失ったからこそ昔
の建物も残されまたそれを新しく
建て替えるという同機も生まれず観光都市
になったわけです日銀の視点もあったん
ですよ2002年まではあったはずです今
は記念間資料館になって
ます1869年の樽がこれですこれから
70年ぐらい経つともう今とほとんど
変わらない景色になってるわけですから
すごい力の入れ用だったわけですそして
北海道最初の鉄道はこの小樽からしかれ
ました後でまた紹介したいと思いますが
小樽が一時期北海道の玄関だったんです
函館よりもある意味では早かったんですね
ここを拠点とするからには必要な資金も
用意するということで銀行の活動も始まる
わけです明治20年代かなり初期のオタコ
まだ前部みたいなのが明治時代になっても
たくさんうろうろしていた頃ですね後で
説明しますが二神涼二心がね国の経済を
動かしてたんですよ明治30年になると
ちょっと棋戦が増えてきたようですその頃
の鉄道網がこんな
感じ小樽室蘭釧あとは函館ですかねこれが
北海道の古くからある4大港町ま函はまだ
大丈夫だと思います釧ももうだいぶ性資業
とかもなくなってきてきついんじゃないか
と思いますが
ままだまだでもね同等の拠点としての地が
あります大樽室蘭はもうちょっと公案都市
としてはどどうなのかなみたいなところは
ありますよねしかし戦前の繁栄ぶりは
ものすごくちょうどこの辺りの景色ですま
今とそんなに大きく変わってないんじゃ
ないかここに映ってる建物も半分か1/3
ぐらいは残ってるんじゃないかという気が
するんですがしかし昭和になる頃にはもう
さっき歩いてきた道はこんな感じになって
いたのだと言います小樽市の金庫がその
まま残されていますで入っていいんですね
結構扉も分厚いんだな燃えたら大変です
からねまたすりゃいいのかな日銀は別に
なくなったら作りゃいいできる気もするん
ですけどどうなんでしょうとはいえ作るの
にも金かかりますからね1000億円分の
紙幣らしいですそもそも日銀のやっている
ことをみんなに知ってもらうための施設な
のでお札とか貨幣一般に関する展示の方は
どちらかと言えば多いです経済をお金に
例えると血液がお金で血管が銀行であり
それを全て動かし全ての血液がまた戻って
くるのが日銀だということが展示されてい
ますそしてこの小樽も北海道の心臓とかて
呼ばれていたのだそうですなぜ小樽が栄え
そして衰退していったのかというのは港と
あとはねやっぱこの線路を辿るといいと
思いますね手宮線です観光客がよくこれの
上に立ってあのスタンドバイミーていう
映画があるんでしょあれの真似をされてる
方が多いようですまこれは樽の観光地化さ
れている鉄道後なんですが40年ぐらい前
までは割と最近までは使われていたんです
ねこれでこれ日本でも超初期に作られた
鉄道で北海道で最初の鉄道なんですがどこ
まで続いていたのかというと小樽から過ぎ
て札幌過ぎ鉄道の町岩見沢の先にあるほろ
ないという今では鉄道がなくなってしまっ
たところにある炭鉱まで続いていまし
たここで配線跡コーナーはもう終了となっ
てしまうんですがそろそろ来るんじゃない
かないいいました新空港行きの快速
エアポートですあそこから先は電車が走っ
ているということが分かるわけですね
ちょっともう1回地図見てみいただきたい
んですけど現在市小樽駅と南小樽駅の間の
ところですで現在は函館本線がこんな感じ
でこう走っているんですがちょっと不自然
な折れ曲がりをこの辺りでしていますで
配線後この図に表してみますとここにです
ねビッとこう引かれるような感じになって
このポイントで合流するわけですが元々は
この配線跡の方が古かったんですねなぜ
こっちの線路の方が古いのかって言うと要
はこの線路ずっと遡っていったところに
ある炭鉱の石炭をはわですね100km
持っていきますかねずっと円持ってきて
そしてこの先にある小樽の港から石炭を
積み出して日本の様々なところで使った
からということですこの幌内線が九州の
筑豊線と並んで日本の近代下に不可欠だっ
た石炭を全力で運び出していた従業路線
だったわけですしかしあれですねなんか
信号通信用のやつなのかな昔の電柱が残っ
てるんですよねこれ多分現役時代のやつ
だろうなあとこれ伏線だったんすかね
ずっとさっきから線路2本分あるんです
けど周りの家とかが明らかに古いし明らか
にこの線路から離れてるんで伏線だったん
でしょうね多分戦前まででしょうねあ
やっぱりそうだ線路も教出されてしまい
ましたって書いてありますねやっぱ戦争
遂行に必要な部分にレルをこう作り替え
たりとかして大体のところは剥がされて
しまったんですよね戦後も線路が2本に
戻ることはなかったそうですタルコの需要
が回復しなかったからってこですねこれも
レールだなんか凄まじいものがありますね
なんでこれは食い込んでの木の方から
食い込んできたのかな多分昔の踏切りだっ
たんだと思うんですよこのワイヤー式の
踏切りってのがあったんですけど木が成長
してこんなことになっちゃったのかなこれ
が本来の姿ですからね昔はここがこう
踏み切りだったっていうの想像できると
思いますけどそろそろこの線路の終点が
近づいてきました僕も実はちゃんと歩くの
はこれが初めてだったんですがなぜ近づい
ているのが分かるかというと地形で分かり
ます山がありますからね山があるという
ことはそこら辺の海岸は地形が水中も深く
なりがちで深い水深があって大型線をつけ
やすいような地形がこの先にあるはずです
13時のサイレン多分今もう終点に着いた
んでしょうね駅校内は幅がちょっと広く
なって線路も増えました終点の駅の名前を
手宮駅と言いますこの辺りまで来ると観光
地下もされていないような感じのただ昔の
まま残っている建物も多くていいですね
また日本優先の小樽地点の立派なビルが
あると聞いてきたのですが残念ながら工事
中でした令和6年までやるんですね
まだまだ長そうですましかし修理工事です
から解体工事じゃないだけいいですよ今
配線後ずっと北上してきましてその配線
アトの横に日本優先の小樽地点があります
で私の今いるのはその向かい側の運河公園
というところなんですがまこれが運河公園
なんですけれども多分ももはねここも運が
だったんじゃないですかで日本優先の目の
前まで運が来てたんだと思いますよはここ
に立てないですよねちょっと寄り道をし
ましたが配線後20分ほど歩き今度こそ
終点に着きました北海道で最初の駅手宮駅
の跡地に着きました跡地は博物館として
使われています元々交通博物館という名前
だったと思いますが今は小樽市総合博物館
という名前になっていますまその方がいい
んじゃないですかここがあったからこそ樽
が発展したわけですから鉄道関連の展示が
多いと思います北海道で活した数々の車両
たちいいすねおこれがキハ8あ違う騎士
80鉄道の紹介もね面白いんですけども
それは実はまた今度別でね来る用事がある
のでその時に回しますまとは言いながらも
やっぱり皆さんも鉄道に興味がある
でしょうし僕も好きなんでちょっと編み
ますED75もう北海道は青函トンネル
以外電気機関車ってないんですが昔はあっ
たんですよね石炭の輸送量がものすごかっ
た時でしょあいいですねこれを見なきゃね
石炭貨車さっきの電気機関車と年代は近い
のかなと思い
石炭がもし北海道になかったらもこの線路
も建設すぐにはされなかったでしょうし
北海道開発だいぶ遅れてたんじゃないです
かどの程度してたかも分からないですよね
あとはここの博物館の名物とえばこれです
よね日本銀行がかつて所有した現金輸送者
マ30存在を一般には公共されていない
秘密の貨車ですここの1番の名物は屋内に
大切に保管されています蒸気機関車静か号
ですオタルの映画の歴史もこの蒸気機関車
と共にスタートしたということんですね
まさにその機関車が運んでいたその石炭も
展示されています炭鉱の石炭の本州各地に
送り出す港まへの輸送手段をどうするかが
開拓手にとって重大な問題となります石川
まで鉄道を敷いて船で川を下ってるまで
輸送するかまワまで持っていくかと色々
考えたんですがオタルまでやるということ
を1879年に決めたと
おおすごい模型が展示されてますが戦前の
石炭積み出しの光景です昭19年までこう
いうのがここから先に進んでいくとあった
そうです内陸部空地から石炭を積んできた
貨車がここまで運ばれて海の上に突き出し
た高架線に止まりそこの下で待機した船に
物を積んでいくという光景ですねなぜそう
なるかと言いますとこのように大量の石炭
を積むことのできる大型線はここはある
程度もう海からこう沖の方に出てますが
水深があるんでしょうけどもこの辺はどう
してもですね水深が浅いとこんな風にこう
乗り上げてしまいますからけることができ
ませんだからある程度この沖合いのところ
まで逆に高架線を作って列車が大きに出て
くるということをやっていたんだそうです
石なをもう積み終わった貨車はどうするか
というとそこから前の方に押し出されて
いくとですねまこれが殻の貨車らしいん
ですけれどもそのまんまこうですねここで
折り返してそしてポイントを切り替えて
今度は下に自動的に流れるような構造に
なってる美しいですねこれこボタンがある
んですけれども
[音楽]
当初の要素も戦前ですからねこれは著作権
は全部切れてるから大丈夫だこんな感じ
だったんですね昔のこの辺りの光景を模に
してくれていますとても分かりやすい今
多分私がねいるのはこの辺で見学している
んだと思いますがこれよりもさらに奥の方
に行くともうすぐこの場所は海と面してい
ますそして昭和19年まではこういった
ものが海の上に突き出ていたのだそうです
現在の樽の港の中心部はこの辺りになって
いるんですが見てみると分かりますが
こんな感じの砂浜でしてとても大型線が
つけられるような環境ではありません現在
中こんな感じの場所なんですけれども元々
はこの山に面したようなところじゃないと
水深が確保できなかったんじゃない
でしょうかでえもう戦前ぐらいね昭和とか
になってくるとこの辺りにたくさん
埋め立てをしてちゃんと使える港が便利な
港がたくさん作られたから逆に私の今いる
この辺りはもうそんなに港としては使い
まくってはいないようですよ博物館の外へ
出てきましたなんか昔はこの山の上とかに
も鉄道みたいのが通すたとかいう話ですが
え多分さっきの高架の積み出し施設はどっ
かそこら辺にあったんだと思います今
100円ショップとかまあと倉庫とかに
なってるみたいですまさか小樽発症の内が
今100円ショップだとはねこの100円
ショップの向こうにさっきの博物館があり
ましてまさにここに列車がやってきてです
ね昔はおそらく海の上に突きてたさっきの
すごい橋もあったんでしょうでこれが北端
のローダー基礎跡という風にGoogle
マップに紹介されていたところですがこの
上にまざっくり言うとでかいUF
キャッチャーみたいなのがあってそれで
ここにやってきた船に石炭をバラバラ
1980年代の初め頃まではやっていた
そうですここから見る小樽の景色はやっぱ
特別な感じ向こうが札幌方面彼方の町も
見えてはいますがしかしその間にですね
険しいこんな山があって車が頑張ってその
上を越えているのも見えますそしてその
険しい地形に守られた穏やかな湾になって
いる小樽の港をさらに守ろうとも明治時代
から建設が続けられてきたこの巨大な防波
堤がここにいくつもこれで反対岸までです
ねビっと守っていて湾内の平穏が守られて
いますそしてこのワンの中でですね今でも
小樽の港を現役の港としてきづかせている
1つの船会社が新日本海フェリーですね
これと17時に新潟へ向けて出行する30
ノットぐらい出るという超早い船ですまた
こんなのもありました北海道鉄道発症の地
ここに蒸気機関車が最初乗り付けられて
アメリカから輸入したものが北海道に
初めて鉄道車両が上陸した地なんですね
そしてやっぱりここを石炭積み出しがあっ
たからこそ北海道に鉄道が敷かれたわけ
ですからそういった意味でもここが北海道
鉄道発生の地でありましょう今回の旅です
ね一応鉄道150年記念ということでやて
なのになんで船旅やってるんだよと思わ
れる方も多かったんじゃないかと思います
けどずっと連続して見ていただくとああ
なんとなく分かってきたわ思っていただけ
たかなと思っていますまた岩壁から
ちょっと離れた浦山の下に来るとすごい
ですねレガの洋平がありましてこういう山
の洋平ってのはまああもちろんね今では
日本中いろんなところで崖崩れ防止のため
にありますけどこんなレガ作りのものって
いうのは滅多に見ないですよ相当重要な
場所だったんだろうなと思いましたらあの
さっきの見たのはねちょうどこの山の上の
ところに上がるような感じで作られていた
んだそうですなるほどね小樽の名物になっ
ていて船でオタル港にやってきた人たちは
ほうほうと言ってみんなこれを面白く見物
したのだそうですそしてその桟橋の手前に
あるどっさりと敷かれてるこれが全部石炭
だというのですね今のねまさに100円
ショップですよその後また博物館に戻って
きました再入精度ってのはなかったんです
けれましかし入間料は安いからねま間違え
ったなぐらいで住みました今年で大太姿勢
ちょうど100年なんですねそれを記念し
た展示をしていますでもまだ100年しか
経ってないですよね死になってから
ちょっとなんか遅いんじゃないかなって気
がしますけどそれはね理由があったらしい
ですオタル市誕生の頃と書いてあります
ようやく小樽死になったというような状況
であるのに死って当時は全国でも少なかっ
たですからねそれなのに超大都会の景色を
見せていますで小樽市は人口はすごいあっ
たんですですけれども北海道は未だ自治
発達せずとして姿勢の対象とはしません
でしたそれが明治政府に認められたのが今
から100年前だというのですね今度は
その小樽が衰退してきて運河を潰して道路
にしようていう計画の話の時ですねでそれ
に対する反対運動とかですね運河を残し
ましょうというようなポスターとかの記録
が残っていますこれは貴重ですね結局完全
に運がが残されることはなかったですが
部分的な保存は結構色々ところでされてい
ますでおそらくこれがその理想だったん
でしょうね完全にその目的が達成される
ことはどうもなかったのかなと思いますが
しかし部分的にはね結構保存されていて
この要望はかなり意味のあったものだと
思いますよだからこそオタルが観光地とし
て生き残ってるわけですからね運がは残せ
ます残さなくてはなりませ
んこの動画の冒頭のところでご覧いただい
たところが埋め立てられて道路にされる前
の姿でしょう大量の橋見が止まっています
ね小樽が衰退してしまった理由は端的に
言えば石炭産業がダメになってしまった
からなんですけどじゃなんで石炭産業が
ダメになったのかと言うと蒸気機関車とか
蒸気戦とか石炭を使うものがなくなって
エネルギー革命になったんでダメになり
ましたみたいに言われることもあるんです
がまそれは部分的にはそうかもわからない
んですけど基本的には日本が経済成長して
しまったからだと思うんですよねというの
は先日苫小牧から秋田まで最初に新陽海
フェリーに乗った時に出行する時にこ石炭
を運び込んでいるオーストラリアからの船
がいましたがこんな感じで火力発電とかで
まだ石炭は使ってはいるんですよねだから
石炭がいらないわけではなくて日本人が
経済成長によって給料をたくさんもらわ
なきゃいけなくなっちゃったから日本人
よりも安く働いてくれる外国人が作った
石炭を外国から輸入した方が安いという
理屈なんですそれで日本の石炭産業はほぼ
絶滅したわけでした船も外交コンテナ戦と
かになりますともう乗り
日本人ってほとんどいないんじゃないです
かもうなることも困難だと思いますよ
どんなにね頑張って世界の海を行く
コンテナ線の乗り組員として活躍したいっ
て言ってもめちゃくちゃ狭きもんになると
思いますねなぜなら日本人に給料を払っ
たら高いからですちなみにこの博物館では
すごく古いアメリカの蒸気機関車を保存
運行してくれているんですがこれも珍しく
重油で運行するそうです石炭使わないん
ですね11時ぐらいから動画撮り始めてる
んですがもう4時ですお昼ご飯も全然食べ
ずにずっと見回ってましたんでおそば
食べようと思ってまたスタートし点のあに
戻ってきました明治27年創業こするよう
な形に
なり非常に美味しかったですびっくりした
正直ま美味しいと言ってもそこそこの
美味しさだろうコロッケそばみたいなもん
だろうと思って食べたんですけどねこの
掛けそばの上にニシがこう乗ってまして
もちろん大そばも食べながらニシも食べる
んですがこれはニシの甘物磨きニシという
やつです昔はもう魚が長持ちしませんから
こういう風に干物にしたものを水で戻して
食べるということとやっていましたでそれ
で身がポロっと取れるので磨きニシなん
じゃないかという人もいるらしいです日
なんかただの魚だろうと思いきはもう
とてもただの魚ではなくとんでもない魚で
あったという時代もあったんですね樽と
いえばミじゃないですかちなみに今来て
いるところは小樽運河のところなんです
けど分かりますかこの道の向こうにね運河
がこの木の向こうにほんのちょっとだけ
あるんですけれどもあれよりもこっち側は
昔もっと運がが広がっていたの今埋め立て
たんですねだからこちら側も向こう側も
両方倉庫群だったわけですでそこにある
小樽総合博物館さっきも言ったあの鉄道と
かが並んでいた博物館の文官です共通券を
買って50000円で両方見られます2料
の光景が展示されていますこういう風な船
てですね異常に大量の西をなんでこんな
大量なのにみんな平然としてるんだよ
みたいな異常な取り方なんですが2は春の
時期になると大量で押し寄せるという終戦
がありまして今でもねタルで毎年6月とか
かなもっと早いかな見ることができるんだ
そうです加工している作業中ですね多
すぎるんですよねその数がこういう風な
小舟で持ってどっさりとですねこんな風な
撮り方ですから樽の漁師さんはもう毎年春
の時期に2料をやれば3ヶ月だけ働いてあ
は働かなくても良かったような収入があっ
たらしいです日清がちゃんと使えるもので
あるから状態がいいかとかですね大きさは
どうかとかによって選別をしますでその
結果これは状態が良いという風にされた
ものはここでさらに上で干物にされるため
の加工つまりさっき食べた磨きニシの加工
が行われるようです一方で多分多くのもの
は選別から漏れるんですけれども選別から
漏れた後はどうするかというとこのように
大量の加工ラインがありまして色々な加工
がされているようですでそのうちのですね
この目立つ道具がこれなんですがプレスだ
そうですで上からこれを圧力をかけて
ぎゅっと大変らしいんですけれもおしを
することによって二の絞りかと油を分離
するそうですそしてねこれなんですけれど
もその油と分離して最後に残ったこのカス
を肥料として全国に出荷していたわけです
これがとても大切なものだったんですね
日本の農業メカとかを作るのこれがないと
成り立たないような場合が多かったと思い
ます出来上がったカスを最後乾燥させて
こういう風にタみたいなものに積み込んで
そして船これは橋ですね橋に積み込んで
ですね海が穏やかな時に橋に使って
漕ぎ出して外洋にある遠方へ向かう棋戦に
積み込み
ますそれをまた他のところで陸にを下ろし
て農業の肥料として活躍するわけですま第
1次対戦ぐらいからですかね科学肥料が
かなり終了になってくるので2をもう肥料
にするという時代も終わってきたし
そもそも2があまり取れなくなってきたん
です理由はよくわからないんですが日って
いうのは結構こう場所を移動する性質が
あるらしくしかも集団で一気に移動して
いくんだそうでもう太平洋戦争の頃とかに
はほとんど生産はなかったみたいなんです
ねという一連の流れが示された見事なこの
平部なんですがこれ明治39年に書かれた
ものだそうですただ実は大樽ではなくて西
の町としてまた有名なルモイなんですけど
ねこの小樽氏が北海道の心臓だというのも
納得で要は工業のエネルギー源である石炭
そして人間のエネルギー源であるま肥料
もしくはそのまま食用としての2心がです
ね両方ともたくさん取れるようなところ
もしくは積み出しとしてとても重要な
ところであったからここにこ展示されてる
のまた大きな石炭ですけれどもまた小樽が
その経済の中心として大繁栄を見せたのだ
ということも分かりましたここのもう1つ
の大きな天中は西新の他に北前船です
北前船は江戸時代のものという印象が強い
ですが江戸時代はあまり積極的に人が入っ
てこなかったの小樽にも北前船は来てい
ました実際には北前船の全席が明治時代だ
からですね主航路とブッシュの動き云々
書いてあり
ますこういう風にしてコができていってい
たわけですがこのオタロエあとはここには
書いてありませんがこの辺のハボロとか
ルモイとかですねそういったところで
たくさん2が取れてそれを南に運んで行く
ために北前船が運行していたという面も
もちろん強いの
です
北海道にはこれだけのものが北前船によっ
て運び込まれてきたということが書いて
ありますが逆に言うと北海道から運び出し
たものは日進だったんですね昔の小樽港の
写真が展示されています校内が荒れている
と小舟で大型線に物を運んで行くという
ことができませんから明治39年なんです
がもうさっき見たあの長い防波堤がですね
すでに一部完成していますさっき見たあの
防波電のところにねこんなに北前船がいた
時代があったんですよねちょっと信じられ
ないですけども出た博物館の横にお土産屋
さんみたいなお店があるんですがそこの
入り口のところになんかこんなものがです
ね何の気なし何の説明もなく普通に置いて
あるんですけどこれ昔西神積んでたやつ
ですよこれに2を積んで一生懸命ですねせ
をリュックサックでしょほらそうですよ
これを何杯運んだかというのを確認して1
日の小田をもらえたそうですじゃも食べて
その歴史も表したし次に見るのは2信吾店
だなと思いまして2信吾店のある祝という
ところに来ました小太郎気品館と書いて
ありますすなんかちょっと想像絶する建物
が奥に立ってるんですけどまとりあえず
現在地のご案内からいきますかえ小樽シは
ですねこの石狩湾のこのこういう風な
ところにこうあるんですけれどもそこから
ちょっとこうすごい岩山になっている
ところがあるんですがここをトンネルを何
本も使って超えてきたお隣の入り江ですね
だから結構離れてるっていうイメージです
けれどえその場所にあるこの地形が山の
ところにですね細長く集落を作って今でも
人がたくさん住んでいる祝地区ですで西涼
のま漁業経営者みたいな人かなその網元と
いう人が建てた立派な豪邸が今でも北海道
の小樽とかですねいろんなところに残って
いて2御店として親しまれています親しま
れているけど親しみは持てないですよね
豪華すぎて昔のこのビニビニのガラスだ
たりとかですね内装もすごかったんです
けれども撮影禁止ということだったので
すごいものをただで見せてくれるという謎
の豪華な感じだったんでえ募金箱というの
があってこれにお金を入れてですねえそれ
でここは立ち去ることにしますもう
ちょっと時間があればここにも寄っていき
たかったんですけど本当ね夜予定で来てい
たんですけど昔の豪華見Over差を
イメージした食べ物とかこれ今の時間でも
食べられるのかな日そばとかもお昼の時間
だったらば間違いなく食べられるはずです
ちなみにさっきの2後店の青山ではえ当時
の価格でえ30万円かけて建設したんだ
そうですがあの同じ時代に伊勢タデパート
を建設してましてその伊勢タデパートが
50万円だったらしいんであのお家1軒
ですどうやったらそんな金額になんだって
感じですけどねこのでかい岩山の裏側に
小樽の港があるんですねもう1つの2後店
に行きましょう元々あの場所に立っていた
わけではないんですが小樽水族館の近くに
ですねえ元々あった2信号店を移設したの
が5時まで見学することができます東台も
あるんですね歴史のありそうな東台だ
なんか歩いてると平然と豪邸に出くわすん
ですよね玄関が2つあったり明らかにそう
ですよね中はもう少女が破れて使ってい
ないみたいですけどうわあすごい壁西街道
と書いてありますあ横にもまた豪邸
が北海道の田園調布ですねなんとなく
でかいなというのだけ見て帰ろうとし
ちゃいましたけどお家の玄関には2が展示
されて
また出た豪邸がもう1個ありますであと
この高台に小樽水族館があります今回は
行きませんが高校生の時に1回行きまして
ねペンギンのシが結構面白かったですここ
もまたでかいバヤが2段がですね網元と
あみこと言ってあの経営者とそれからえ
そのま雇われているその船乗りの人たちが
みんな一緒になってここで暮らしていた
ようです元々はそういう作業場ですから
こういう高台にわざわざ2信号店を建てる
理由はないのかなと思いますけども今から
行く小樽市の2後店は移設したわけですが
まそれはそれでね長めのいいところにある
のは悪くないんじゃないかという気がして
きますあの奥の荒々しい岩の裏に大樽市街
があるわけですねでここがその手の前傾
いいですねここが昔西でとにかく賑わった
ところなんでしょうでここの一部山を
切り開いたんでしょうか小樽水族館一連の
施設がありますもしかして終わったかいや
まだ大丈夫そうだだ寒いこれがいわゆる
日本海の西風ですかね漁業の拠点だっって
のがよく分かる
玄関小学生の一段がみんなして入ってきて
も大丈夫そうなぐらいのサイズ感です元々
はもうちょっとこの半島を回り込んだの
原発とかがある泊まり村の方にあった建物
を一したのだそうですでも昭和33年一
だっていうから相当古いすねちょうど僕と
100歳と上なんです
ね岩倉高校同年です
ねありえないぐらいなんか天井が高いんで
なんでそんなに高いのかなと思ってお聞き
したらですね親切にここの方が教えて
くださいましたこういうにをかなり盛に
やりまくってでその肺炎のために高くする
んだそうですじゃなんでそんなににが盛な
のかと言うと大勢が済むからなんですね
120名が寝泊まりしたところですという
ところをこれから寝室を見に行くことが
できると思うんですがあこれかこの天井裏
みたいなところにこう大勢人がここ住ん
でるんですねでここの横の階段垂直のやつ
を上がってここで上で寝泊まりすると2料
で来る人たちはこの辺の人たちがやるわけ
ではなくてあの出稼ぎの人も多いんだそう
でそういった人を寝泊まりさせる合宿所的
な設備が必要だったつことなんですねで
こちらはですね使用人室って書いてあるん
ですが使用人ってのはあれかなあの経営者
ってことかな経営者の住む部屋だと思うん
ですよ多分だいぶさっきと比べるとあんな
もうむみたいなの渡されて雑魚寝するのに
比べたらばだいぶ作りがいいっていうかよ
すきますよねこんなんまであるしクマの毛
が
やらあの漁父を募集するための採用の親方
が使うカそれにサタを詰め込んでいたとか
ですね明らかに金の匂いのする部屋です
いいですね建物は半分が言はしたっぱの漁
みたいな人たちの部屋でもう半分が経営者
側の部屋になっているよう
です作りの豪華さが違います昔の建物って
大概階段が急なんですけど結構いい作り
ですもんね上がってみましょうねさっきの
雇われ漁父さんが通るようなところでは
ないですよ頭上注意とは言ってもまあまあ
まあギリギリちょっとぶつけるかなぐらい
の人間的な低さ片120人がごったになっ
てみんなですまい毛片方はこんな感じの
空間になってる所員作りですよねこの対象
性がいいですよそしてこの豪華な部屋の奥
に隠し部屋みたいなのがあってそんなのが
あるのかびっくりなんですけれどもただ何
について使うのかということはもう
ほとんど秘密になっていたからよくわから
ないらしいんですが色々あります現金の
保管場所とかですねそこの悪い人たちから
あの経営者一族が避難する場所だったん
じゃないかとかですねあの人材を隠す場所
だったとかなんか借金取りから隠れるため
とかえ雪崩れの時にいざという時にはここ
に避難するま確かに頑丈そうですよね黄金
時代の祝の光景ですねこの細長いおう
それぞれが万屋なのかなつまり2後店2後
店でただ乱豪華なおを立てたっていうだけ
じゃなくてやっぱり産業の中心的な場所
だったんですねいや行ってよかったすごい
面白かったな要するにこっち側のま私たち
が普通に入とで使うこちらの入り口があの
雇われている従業員さんたちの入り口でで
こっちに2後店みたいなこと大きく看板が
かかっていますがこちらの入り口が経営者
やその家族の専用の入り口なんですねこう
分けられていたんだだから入り口が2つ
あるんですねそして2信後店では大勢の人
が生活する関係でに岳をたくさんするので
煙がいっぱい出るから肺炎装置としてこう
いう風な出っ張りをつつけるのが重要だっ
たということなんですね結構機能的な形な
んですね
元々はその辺の砂浜とかなんか今こう建物
が立ってるところ船が並んでいるところに
もどうも2後店がいくつもいくつも並んで
いたそうですそしてちょうどこの高台から
見たかった景色がありました奥の岩場の
後ろが小樽の港だと言いましたがそこから
出てきた新潟駅のラベンダーの出行
ですかっこいい垂直選手ビッと切り立った
この選手の部分が波を切り裂き超高速で
新潟まで行ってしまいます
小樽の港を気づかせている会社の1つ
もちろん今でも小樽校は重要な公案である
ことは間違いありません船のバックには
海岸線を走るJR北海道の電車の姿もあり
ます新千歳空港から来た快速エアポート
ですね編成の真ん中に普通席指定式u
シートがついているから分かりますそう
ですこれですね真ん中のオレンジの照明
です小樽は衰退した衰退したと言ってです
ねもう散々小樽の方を怒らせてもしかし
たらもう小樽の方は動画をここまで見て
くださっていないかもしれませんがなんだ
かんだ観光客が魅力を感じて止まない小樽
はこのような経緯によって様々な衰退を
乗り越えまたうまく衰退と強調した結果
誕生したわけでし
た小猿の魅力を1日かけてお伝えすること
ができたかなと思います東台から
ラベンダーを見下ろしましょう日山東台は
とんでもなく歴史がある東台でした
1883年が初店頭だそうです当たり前
ですよねだって大樽が1880年にはもう
鉄道とかも引いて動き始めているんです
からそこに用のある船舶に対して必要な
装備をしなくてどうするという感じです
すごい長めだそこを猛烈な速度で新潟へ
向けて行ってしまうラベンダ小樽が衰退し
てしまった大きな理由としてはですね
やっぱ苫小牧だと思いますよこの苫小牧
以降が戦後になってから超いい港が作られ
てしまいましてじゃあ札幌にもほどほど
近いし他のところにも行けるし苫使った方
がいいよね港の条件もいいししかもリチ
条件も苫小牧の方がちょっとこう大樽より
も便利という場合も多かったんですね東京
方面からだったら大樽はかなり遠いです
から小樽西向きの港ですもんねということ
で小樽もそれから室蘭も苫前にその高成は
だいぶ吸い取られてしまったように感じる
ところですが新陽海フェリーはほとんど
全部の船がおたる
戦績会社の本拠地も小樽という感じですま
実際には大阪の会社なんですが北海道側の
拠点といえば小樽のイメージですね今後も
小樽のイメージを牽引する一員として
頑張っていくでしょうありがたいことです
じゃあもう寒いから
帰ろう僕もこの後の新日本会フェリーで
行きます崖を降りてきてさっきの建物もう
一度見てみると従業員の方が使う入り口と
経営者の使う入り口明らかに格が違いまし
たねこっちが従業員の家用でしょ普通の
屋根こちらは二重のこんな立派な飾り付け
の屋根になっていましたまた実はここと樽
の中心部のはこの観光線青窓というので意
できるらしいんですけれども残念ながら
今日ねちょっと天気の関係で運行されて
おりますんそんな悪くなかったと思うん
ですけどねちょっと白波立たから無理かと
いうことで行はタクシー帰りは時間が合う
のでバスで戻ることにしたのでしたご利用
いたバスでトンネルを抜けて山を越えて
また街の中心に戻ってきましたタルも夜は
綺麗ですよね夜になって観光客も増えがち
な小樽運河の景色ですやっぱりこれは
せっかく来たんなら見とくか気になります
よ
ねこれがいかに演出されたものであるか
実際の光景と離れてしまったものであるか
というのはもこの映像見ていただければご
理解いただけると思うんですが一方で
いかにして大樽の人たちがこれを守ろうと
いう着替を持ってやってきたかこれを
残そうと頑張ってきたかというのもまた
同時によく理解できるところだと思います
昔はこの顔はもっと広かったですし2の
出荷も石炭の積み出しもありましたそう
いったものがなくなった代わりに昔は
なかったライトアップができてもう
すっかり光景は変わってしまったように
感じますがでも小樽がそれなりにやはり
経済力を持った都市として維持されている
ということが1番嬉しいことかなと思い
ますねそれでこの後なんですけれどもえま
現在ここ北海道の小樽にいるわけじゃない
ですかでこれから乗る船がですね次はこの
小樽を23時30分だったかなえ出行の
新日本海フェリーアザレアに乗る予定なん
ですがそれ遅いんですよね36分前の情報
なんですけれどその時点でまだ秋田県のお
気合いを高校中と言います
ええ秋田県ってここ北海道のしべですよ
もう夜になってるのに今日の夜にノル
フェリーがまだ秋田にい
るっていうのどう大丈夫なのかなどうなっ
てるのかっていうことはねちゃんと分かっ
てましてこれ電話で聞いたらあの天気が
ちょっと悪かったらしいんですね新日本海
フェリーからもね今日の昼もちょっと送れ
ますよみたいな電話は来て聞いてたんです
けれ入がどれぐらい遅れるのかってのも今
聞いてみたら少なくとも1時間は遅れます
と言われました実際には23時間以上
遅れるんじゃないかなとりあえずここの
長崎屋で何か食べることにします樽アかけ
焼きそばを食べますまだ食べてないんです
けれどもあの樽では昔から結構これが人気
だったそうでして今は小樽観光の一巻で
これも押されているのだそうですどんどん
押すべきですねそしてご飯も食べてきまし
てこれでとりあえずこの動画もわりにさせ
ていただきたいと思います今小太郎駅に
また来ていますが次はこからまた港まで
行きましてもう実はね東日本北海道編も
ほとんど終わり次の目的地は神戸ですご覧
いただきありがとうございまし
た当社の動画で宣伝をすれば観光客で大
半場しかも訪れるお客さんはみんな親切な
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