本当にさばいてはいけないのか?!
Summary
TLDRこのスクリプトは、聖書における「さかれる」という概念を深く掘り下げ、誤解されやすい箇所に焦点を当てています。講演者は、人々が自分自身をさかれずにいる理由として、聖書の誤解や悪用を指摘し、現代のクリスチャンがこれらの誤解を解消し、正しい解釈を追求することが肝要だと述べています。また、人々が他人を判断しないようにと聖書の教えを引用し、神のみが持つ判断の権利についても触れています。最後に、救いを受けるための信仰の大切さを強調し、聴衆に神の言葉を精査し、正しい道を選び抜くよう促します。
Takeaways
- 📜 「さいてはいけない」という聖書の言葉は、誤解されやすいテーマであり、人々が自分自身をさかれないようにと他人を批判する傾向がある。
- 😇 神は人を切り離すことを望まない。人々はすでにサタンによって神から分けられているため、神は人をさかれない。
- ✝️ 人々は自分自身を神の敵と見なしており、自分を神から切り離すことを望んではいない。
- 🤔 「さく」という言葉はギリシャ語で「判断する」や「切り離す」を意味し、聖書の文脈で深く掘り下げられる。
- 💡 ヨハネ3章18節を解釈する際には、「さかれない」とは神から分けられていない状態を指す。
- 🌟 神は人を救うためにキリストを世に遣わし、人を神と再び結びつけることを望む。
- 🧐 人々は他人を判断する代わりに、自分自身の言葉と行為を吟味すべきであり、聖書の教えに従って正しい判断を行う。
- 📖 ベレアの町のユダヤ人は聖書を熱心に研究し、教えを吟味することで、真理を追求した。
- ❌ クリスチャンは自己流の判断で人を切り離してはならず、神の基準に従って行動すべきだ。
- 🔍 パウロの教えや他の聖書の記述から、私たちは神からの助けと知恵を通じて、正しい判断を下すよう命じられている。
- 🛡️ 神は唯一、生命と無罪についての判断を持つ存在であり、私たちはその判断を尊重し、自分たちの判断で人を切り離してはならない。
Q & A
「さいてはいけないのか」というタイトルで話された内容の中心思想は何ですか?
-タイトルは「さいてはいけないのか」ですが、中心思想は、人々が誤解している「さかれる」という概念を聖書の文脈で明確にし、神の意志と人の罪とをどのように見分けるかについて語っていることです。
聖書の中で「さかれる」とはどのような意味を持っていますか?
-聖書では「さかれる」が、一般的には人々の罪を指摘することを意味しますが、その本質は自分自身の罪を認めずに他人を責める行為に用いられることが多いです。また、神の意志に基づいて人々を分ける行為とも関係しています。
なぜ人々は「さかれる」という概念を誤解しているとされていますか?
-人々は「さかれる」という概念を誤解しているとされるのは、聖書の文脈を正しく理解しておらず、自分たちの罪を認めずに他人を責めることが多いためです。また、神の意志に基づく判断と人間の判断を混同しているとされています。
「自分は自分がさかれないためです」とはどういう意味でしょうか?
-これはマタイ7:1-2に基づいていますが、人々が自分自身の罪を認めずに、他人を責めるべきではないという教えです。人々は自分自身の罪を省みるべきであり、他人を責めることによって自分を正しいと主張すべきではありません。
「さかれる」はなぜ「切り離す」や「分ける」という意味で使われることがあるのですか?
-ギリシャ語で「さかれる」は「κρίνω」(krinō)と書かれており、これは判断する、切り離す、分ける、選ぶという意味があります。聖書の文脈では、神の意志に基づいて人々の罪を認めさせる行為として用いられることがあります。
なぜ人々は他人を「さかれる」行為として判断すべきでないのですか?
-人々は他人を「さかれる」行為として判断すべきでないのは、神が与えられた知恵と恵みに基づいて判断すべきであり、人間の価値観に基づいて判断することが誤解を招く可能性があるからです。また、神の意志に基づいて救いを提供する側であり、人を責める側ではないという考え方に基づいています。
「さかれる」は神の意志に基づいて人々の罪を認めさせる行為ですが、その具体的な意図は何ですか?
-「さかれる」は、神の意志に基づいて人々の罪を認めさせる行為であり、その意図は人を責めることではなく、人々に自らの罪を認めさせ、神との関係を修復し、救いを求めるよう促すためです。
なぜ人々は自分自身の罪を認めずに他人を責めることがよくありますか?
-人々は自分自身の罪を認めずに他人を責めることがよくあるのは、自分自身を守り、正当化しようとする心理的防御メカニズムにかかっているからです。また、他人の罪を指摘することで自分を優位に見せることができるためです。
「さかれる」はどのようにして誤用されることがあるのですか?
-「さかれる」は、人々が自分自身の罪を認めずに、他人を責めることによって誤用されます。また、神の意志に基づく判断を人間の判断と混同し、人を責めることによって自分を正しいと主張する行為として用いられることがあります。
「さかれる」という行為は、どのようにして人々が救われることに関係していますか?
-「さかれる」という行為は、人々が自らの罪を認め、神との関係を修復し、救いを求めるプロセスに直接関係しています。神は人を責めることなく、人々の罪を認めさせることで救いを提供するため、「さかれる」は救いのプロセスの一部となります。
聖書の教えによると、人々が他人を「さかれる」べきではない理由は何ですか?
-聖書の教えによると、人々が他人を「さかれる」べきではない理由は、人間の判断は神の意志とは独立しており、人々に救いを提供する側であり責める側ではないからです。また、自分自身の罪を認めることなく他人を責めることは、神の意志に基づく救いを阻害することにつながる可能性があるからです。
Outlines
📜 「さいてはいけないのか」という聖書の誤解
第1段落では、聖書の中で誤解されやすい「さく」という概念について語られています。政府が持つ罪を指摘する権威性と、それが誤用されることについて述べており、人々がこの誤解から苦しんでいる可能性があると述べています。また、聖書のマタイ7:1-2やヨハネ7:24、ヤコブ4:11節などの引用を通じて、さくとされないという命題を探求し、聖書の表面上の矛盾を指摘しています。
🛐 神から切り離された状態と救済
第2段落では、人々が神から切り離された状態にあるとされており、その状態が死だと説明されています。しかし、この死はサタンから来るものであり、人間の誤解として指摘されています。神は人を切り離すことはなく、救済を提供し、人類を再び神と結びつけることを目指していると語られています。また、ルカ15章の宝刀息子の例え話から、人々が自分たちの価値観で他人を判断し、さかれるべきではないと結論づけています。
🙏 さくことと判断する行為
第3段落では、さくことと判断する行為について語られており、それは人を切り離す行為であり、人間の本質的な闇の一部だとされています。パリサイ人の祈りとして知られるルカ18:11の祈りが引用され、祈りとしての自己の正当化と他人への批判が区別されます。また、主イエスが罪人を招く理由として、病気にかかっている人々と自分を分け隔ててはいけないと述べています。
📖 聖書の基準に照らして判断する
第4段落では、人々は神から与えられた知恵を使って、正しい判断を行うよう命じられています。ベレアの町の人々のように聖書を吟味し、判断するようにと指示されており、それは神の基準に照らして行うべきだとされています。また、予言者や教えられた者たちが語ることを吟味し、それが神からのものかどうかを判断することが求められます。
✝️ 神のみが持つ判断
第5段落では、神のみが持っている判断について語られており、それは命に関する判断と無意義に関する判断です。人々は自分たちの基準で判断してはいけず、神の基準に従って判断すべきであり、また、神の救済によって人間の状態が変わることについて述べています。神は人をさかれることなく、救済を提供し、人類を解放してくださることを目指していると結論づけています。
Mindmap
Keywords
💡さいてはいけない
💡誤解・悪用
💡神のさき
💡分ける・切り離す
💡救済
💡判断
💡正しいさき
💡悪の罰
💡聖書の解釈
💡信仰の重要性
💡人との関係
Highlights
「さいてはいけないのか」というタイトルで、聖書の誤解や悪用について語る
聖書の「さかれ」という言葉の誤用と、それが持つ意味を説明する
「自分をさかれないように」という誤解を解き明かす
「さかれている」状態の真の意味と、それが神から来た死と関係を探求する
「さかれない」という状態が、神から分け離された状態にあって意味する死とは異なると述べる
「さくこと」は「切り離す」「分ける」という意味で、聖書の文脈で解釈する
ヨハネ3章18節の「さかれない」とは、神の独り子を信じない者が既に分け離されている状態を意味すると解釈する
「さかれる」とは、サタンから来た死の力による状態であり、神から分け離された状態を意味する
神が人を切り離すことはなく、人間の分離はサタンによると述べる
「さく」は神からの救いと結びつき、人を奴隷にしている死を壊滅させると語る
アダム以降の人々が死んでいるが、キリストによって救われると聖書に記されている
神は死人を罰することはなく、ただ生き返らせると語る
「さいてはいけない」という言葉の真の意味は、悪を罰することができるという意味ではないとする
悪を行う人を自分と区別してはいけない、病原体と病人を分けないとする
「さく」は正しい判断を下すことを意味し、神から与えられた知恵を用いて見分けることが求められる
ベレアの町の人々のように聖書を吟味し、神の言葉に親しんで判断を下すことが奨励される
神のみが持つ「さく」の権限と、人間の判断を超えた神の裁きについて語る
結論として、人々が誤って「さく」を解釈し、それが聖書の意図と異なると結論づける
Transcripts
はいえ今日は本当にさいてはいけないのか
というタイトルでお話をさせていただき
ますえさいてはいけません自分がさかれ
ないためですという政府は聖書の中でも
1番ぐらいに誤解または悪用されているん
じゃないかと思われる政府です罪を指摘さ
れた人が自分の罪をを言い訳する思弁護と
して使われるケースがほとんどです今も
まだこの政府に苦しめられている人がいる
んじゃないかと思い
ます今日はこういった流れでさくという
言葉についてそして本当にさいてはいけ
ないのか神様にさかれるのは誰なのかなど
などを考えてみたいと思い
ますさくことについて聖書は矛盾している
ように見えることがありますこんな風に
聖書にはさばいてはいけないと書いてあり
ますマタイの7章1節2節ですさばいては
いけません自分がさかれないためです
あなた方は自分がさくそのさきでさかれ
自分が図るその計りで図り与えられるの
です部4章の11節にはこうあります兄弟
たち互いに悪行を言い合ってはいけません
自分の兄弟について悪行を言ったりさばい
たりするものは立法について悪行を言い
立法をさいているのですもしあなたが立法
をさくなら立法を行うものではなくさく
もの
ですところがヨハネによる印書の7章24
節で主イエスは自分を疑う群衆たちに
向かって上辺によって人をさかないで
正しいさきをしなさいとも言われてい
ますさいてはいけませんさかれないため
ですと言われたのに正しいさきをしなさい
とも言われているんですおかしいんじゃ
ないでしょうかヤコブは4章11節で
さばいたりするものは立方をさいていると
言いながら同じ4節では反をする男たちを
また簡をする女たちを世と交わることは神
に適することだと分からないのですか世の
ととなりたいと思うものは誰でも自分を神
の敵としているのですと思いっきりさばい
ているん
ですイエス様もヤコブも矛盾に陥っている
んでしょでしょかパウロも繰り返しさくな
と言いながら彼自身さきを下していました
ではこの問題の言葉砂漠をギリシャ語で見
てみ
ます新役聖書で砂漠と訳されている
ギリシャ語はそのほとんどがクノという
言葉ですさく以外に判断する切り離す
分ける引き離す選び出す選択するという
ような意味があります深解約の2017番
であえてひらがなで表記してあるのは色々
な役と解釈があるからじゃないかと思うん
ですね上から下まで勢力的に判断してその
プロセスによって区別し精査調査すること
です砂漠と訳されてはいますがそれは
あくまでもその他の意味特に分けるとか
判断するという意味を土台にした砂漠なん
ですではまずさくイコール切り離す分ける
という意味で見てみますヨハネ3章18節
には巫女を信じるものはさかれない信じ
ないものはすでにさかれている神の独り子
の名を信じなかったからであるとあります
このさかれないを皆さんはどういう意味で
考えています
か天国域と地獄域だと思っていませんかク
のを切り離す分けるとしてみるとキリスト
を信じないものはすでにさかれている
つまりすでに分けられ切り離された状態に
あると言っているんですね何からでしょう
かそれは
神様から
です人が神様からとは切り離された状態だ
と言っているんですこの状態が死です誤解
してはいけないのはその死は神様からでは
なくサタンから来たということですヘブル
人への手紙にこのように書いてあります
サタンこそ死の力を持つものです
人間は神様からは別れてしまった状態に
ある以上神様がお出来になることは救う
ことしかありませんそれでヨハネ3章18
節の直前にこう書かれてい
ます神が巫女を世に使わされたのは世を
さくためではなく巫女によって世が救わ
れるためで
あるさくと訳されている言葉悔のそれは
あくまでも分ける切り離す判断するという
意味でこの後お話ししますが人に対する神
様のさきつまり神様の方から私たちを
切り離すことなんてありえませんそれは
無理なんですなぜかと言うと人はサタンに
よってすでに神様から分けられてしまって
いるので人は神のさき神様から分け
にはならないんです神様がさくのは人を
奴隷にしている死ですさらにはそれを
持ち込んだサタンです主イエスは神様から
遠く分けられてしまった人類を再び神様と
結びつけて正常な関係を持てるようにして
くださいまし
たこれを救いと言います神様が人にれる
ことはこの救いしかありません死んだもの
は救うことしかできないんです聖書には
私たちのことはこう書いてあります第1
コリントの15章22節ですアダムにあっ
て全ての人が死んでいるようにキリストに
あって全ての人が生かされるの
です私たちは死んでいるないし死んでいた
んです
死んでいるものをそれ以上罰することって
できません神様が死人に対してお出になる
ことはただ1つそれは生かすことですもう
1度ご自分との結びつきを取り戻させて
生きるものにすることだけが神様が死人に
対してできる唯一のことなんですだから
エフェソびへの手紙にこう書いてあり
ます2章の5節です
背きの中に死んでいた私たちをキリストと
共に生かしてくださいましたあなた方が
救われたのは恵みによるの
です神様は死人をさらに分ける切り分ける
ようなことはされないんですそんなことは
無意味です誤解が解けてきたでしょうか主
イエスもご自分がこの地上に来られた理由
をこう説明されていますヨハネによる福書
12章の47節です誰か私の言葉を聞いて
それを守らないものがいても私はその人を
さきません私が来たのは世をさくためでは
なく世を救うためだから
です主イエスの言葉を守らなくてもさかれ
ないんですイエス様が来られたのは私たち
と神様との関係を正常にするため
人類を救うためなん
です次にさくイコール判断するについて
考えてみたいと思いますルカの15章に
宝刀息子の例え話が載っています全てを
失って帰ってきた弟がお父さんに喜んで
迎えられているのを見て兄は分外してい
ます彼は弟をさばいています自分はずっと
真面目に父の家を出ることもなく働いて
いるのに後頭した挙句におめおめ帰ってき
て喜ばれている弟を見て面白くないんです
ね彼は弟を自分の価値観で判断しています
お父さんがつまり天の父が信じられない
ほどの寛大さでいなくなったつまり死んで
いた弟が戻ってきた命を得たこを喜んで
いるというのにお父さんと同じ価値観で
喜べないん
ですルカ18章11節のパリサイ人の祈り
を見てください彼は主税人の隣でこんな
祈りをしまし
た神を私が他の人たちのように奪い取る
もの不正なもの会員するものでないこと
あるいはこの主税人のようでないことを
感謝します
これは祈りではなく他人への批判
です人をさくこと自分とは違うと分ける
こと自己流に判断することの中に人間のう
にある闇を見ますそれは人と人とを
切り離す分ける行為
です兄息子のようにお父さんのそばにい
ながら愛から遠くあったということは弟
以上に大きな問題を抱えているん
ですそしてさくという言葉であるがゆえの
お解もありますこの日本語は通りに叶って
いることと外れていることを明らかにする
という意味があり
ますそして悪い人を罰するとか犯人を
罰するというような意味で使いますしそれ
ゆえにさいてはいけませんというと最初に
ちょっとお話ししたように悪いことをした
人を罰するなという意味に捉えられがちで
この言葉にちんと来るんですなぜなら
この世には教会の中でさえ悪い人が大勢
いるからです教会内で明らかに良くない
事件が起こっていてもさいてはいけません
自分がさかれないためですというこのセク
を持ち出ししてあなたは人をさくんですか
愛のない人ですねと牧師やリーダーに言わ
れて黙るしかなかったということを聞いた
ことがありますですが聖書が教えるさばい
てはいけないというのは先ほどからお話し
しているように悪を罰するなという意味で
はありませ
ん悪は悪として聖書にはそう書いていない
神様はこを悲しまれると言わないといけ
ないんですこの根拠は後にお話ししますで
もだからといって悪を行う人を自分と区別
してはならないということです良金例える
と病とか病原金そのものとは戦っても病に
陥った病にかかった病人はアイスという
ことです主イエスも私が来たのは正しい人
を招くためではなく罪人を
悔い改めいわゆる立ち返るように招くため
ですと言われまし
た病気にかかった人たちと自分を区別して
分け切り離してはいけませんということな
ん
ですでは主イエスの言われた正しいさきと
は何でしょう
か首都の働き17章ではパウロとシラスが
テサロニケという大きな町に行って
ユダヤ人の街道シナゴーグでイエス様こそ
キリストです救い主ですと述べ伝えるん
ですが邦人が救われているというネたみに
駆られたユダヤ人が暴動を起こしたために
2人はそこにいられなくなりますそこで
向かったのはテサロニケから西に行った
小さな町ベレアでしたここでの2人は
ユダヤ人の街道で主イエスについて語るん
ですがその時ベレアの町のユダヤ人の態度
はこうでした首都の働き17章11節です
この町のユダヤ人はテサロニケにいる者
たちよりも素直で非常に熱心に御言葉を
受け入れ果たしてその通りかどうか毎日
聖書を調べ
たこの調べたとだけ訳してあるギリシャ語
はクノに接頭寺の穴がついた言葉穴クノで
これは法廷で心理を行うという意味もあり
ますつまり法廷で心理をする訴訟手続きの
ように注意深く精査したというニュアンス
です第1コリント2章15節の三玉を
受け入れている人は全てのことを判断し
ますがその人自身は誰によってでも判断さ
れません判断もこのアクのが使われてい
ます聖書的かどうか神様に頂いた知恵を
実際に使って見分けることを私たちは命令
されていますそれは正書的ではありません
間違っていますそれは神から出たものでは
ありませんと言える人は神様から頂いた
知恵を実際に使っていますそれができない
ということは知恵がかけているんです
さらにディアクノという言葉もあります
これはクノに接頭時ディアをつけた言葉で
判決を下す中殺するという意味になります
私たちはディアクノもするように言われて
います人だけではなく予言や予言者教え
られたこともさくというと誤解があります
がつまりベレアの町の人のように吟味する
ように言われているんです第1コリント
14章の29節には予言する者たちも2人
か3人が語り他の者たちはそれを吟味し
なさいとありますこれは命令系
ですクノが使ったある例は第1コリントの
5章12節13節です外部の人たちをさく
ことは私のすべきことでしょうかあなた方
がさくべきものは内部の人たちではあり
ませんか外部の人たちは神がおさきになり
ますその悪い人をあなた方の中から覗き
なさい私たちは誰かが教えたり予言して
いることを吟味すべきなんです私たちは
これは神から出たことなのか人からのもの
なのかを分けないといけません神様の基準
聖書の基準に照らし合わせてそれが正しい
か正しくないか判断するんですキリストに
ある集会の者たちを判断するようにと言わ
れていますパウロもペテロにはっきりと
間違いを伝えたことがガラテア所に書いて
あり
ますガラテアびへの手紙2章11節です
ところがケパが
に来た時彼に避難すべきところがことが
あったので私は面と向かって抗議しまし
た私たちは誰かが教えたり予言している
ことを吟味するべきなんですパウロ自身も
自分の話を聞いている人たちに自分が語っ
ていることを苦悩するようにつまりさく
ように言いまし
たさくことについては現代のクリスチャン
の度がマタの福音書7章1節から間違って
解釈をしてしまってい
ますそもそも神様にさかれるのは誰なん
でしょうかさくイコール分けるで読んだ
ヨハネ3章18節をもう1度読んでみ
ます巫女を信じるものはさかれない信じ
ないものはすでにさかれている神の独り子
の名を信じなかったからである英語ですと
ジャッジの他にコンデ避難された有罪宣告
されたという風になっている聖書もあり
ます巫女を信じるものはとめられない信じ
ないものはすでに有罪宣告されていると
いう感じですね私たちは神のさきと聞くと
その対象は人間だと思っています神様が
天国に行く人と地獄に行く人を分けるんだ
それが神のさきだと信じている人は
クリスチャンであっても多いんじゃないか
と思いますですがそうではないことは主
イエスがこう言われていることでも明らか
ですヨハネの16章8節ですその方が来る
と罪について義についてさきについて世に
謝りを認めさせ
ますその方というのは先週もお話した
ギリシャ語でパラクトス援助者や取りなし
て助け主という意味の精霊
です私がこの世から去っていけばその後に
助け主がおいでになりますよと言われて
いるんですそしてさきについては続く11
節でこう言われていますさきについてとは
この世を支配するものがれたから
ですイエス様はさかれるのはこの世を支配
するものだと言われましたこの世を支配し
ているのはサタンですそのサタンが
持ち込んだのが死ですヘブル人の手紙2章
の14節から15節にはこう書いてあり
ましたしって主イエスはこの世を支配する
ものサタンだけをさいて無力にするそう
断言されたんですそれは死を滅ぼすという
こと
ですご自分が一旦サタンの主柱に落ちる
ことによって私たち人間を死の恐怖の奴隷
から解放してくださったことを意味してい
ますその証拠にさばかれたは動詞の官僚系
ですもうパタンも死もさかれてい
ます最後に私たちがしてはいけないさきが
あります神様だけが判断を握られている
ことがあるんですね1つは命です永遠の命
はもちろんですがこの世の命も神様が与え
てそして取ることができるんです旧約聖書
の余は自分の子供たちが殺されてしまった
時主は与え主は取られる主の皆はホムべか
なと言いましたですから例え余名があと1
日であっても人がそこへ介入するとそれは
殺人となり
ますもう1つ神様だけが持っているさき
判断がありますそれが無いについてです神
様のみが人の人生と永遠に対して報いを
与えてその人の状態をどうするかについて
お定めになることができますつまり誰が
救われるのかを判断することは私たちに
許されていることではありません神様のみ
がその裁きをすることがお出きになります
人がすることはできませんまた御言葉の中
で罪として明確にされていないようなもの
も私たちが勝手に判断してさいてはつまり
そんなことで人と人とを分けたり関係性を
切り離してはいけないと思います例えば
テレビを見ることは罪だとか激しい音楽を
聞くことは罪だとかコーヒーを飲んだり
タバコをすると天国に行けないなど
です主にある兄弟感の訴訟やさきについて
はまた長くなりますので今度考えてみたい
と思い
ますまとめます
さくという言葉は分けるとか判断すると
いう意味を土台にした言葉です私たちは
救われることしかできませ
ん私たちは自己流に判断してはいけません
そしてさくというのは悪を罰するという
ことではありませんでし
た正しいさきというのは的かどうか神様に
頂いた知恵を実際に使って見分けること
です私たちはさかれません神様にさかれた
のはこの世支配するものサタン
です私たちがしてはいけないさき判断が
あります命に関してまた無意に関しては
私たちが判断してはいけませ
んベレアの町の人のようにに日々選書を
調べて御言葉に親しんで学んだことを吟味
して精霊と共に判断をしていき
ましょう主に栄光がありますようにまた
来週もメッセージでお会いしましょう
ありがとうございます
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