【浦和と大宮はなぜ仲が悪いのか】埼玉県の共通認識でありながらいまいち理由がわからない浦和と大宮の関係を明治二年より見ていきます‼️ 浦和県と大宮県【県庁所在地争奪戦①】※誤字を修正しました

埼玉県史を考えるヒント@ゴケゴーちゃんねる
22 Feb 202413:18

Summary

TLDRこのビデオでは、埼玉県の浦和と大宮の間に存在する因縁と県庁所在地を巡る争いの歴史を掘り下げています。明治時代初期に、浦和と大宮が県庁所在地を巡って争った経緯と、その結果浦和が勝利を収めたが、この争いがどのように進行したのか、その理由や背景については詳しく記録されていないと指摘しています。講師は、資料に基づいた事実を忠実に追いながらも、妄想を控えめにして、このデリケートなテーマについて慎重に解説し、埼玉県内の歴史的な競合に光を当てようとしています。

Takeaways

  • 😀埼玉県の浦和と大宮間の因縁は、県庁所在地を巡る争いに起因している。
  • 🤔明治2年、埼玉県における県庁所在地の変遷が始まり、最終的に浦和が勝利する。
  • 📚歴史的記録には偏りがあり、浦和側の視点が多くを占めているため、大宮の立場はあまり語られていない。
  • 💡県庁所在地争いは、明治政府による府藩県三治制の導入と地方行政区画の再編が背景にある。
  • 🏛明治2年に大宮県が設立されたものの、同年中に浦和県に改称・統合された。
  • 🤐浦和と大宮の間には、県庁所在地争い以外にも複雑な歴史的背景が存在することが示唆されている。
  • 🔍この争いの詳細は公式の歴史書ではほとんど触れられておらず、推測に頼る部分が多い。
  • 🌏与野は浦和と大宮の間に位置し、両者とは異なる発展を遂げた。
  • ⏳県庁所在地の変更に関する決定は、速やかに行われたが、その過程は複雑であった。
  • 📉争いの結果、現代の浦和と大宮の関係にも影響を与えている可能性がある。

Q & A

  • 浦和と大宮の因縁の始まりは何年ですか?

    -浦和と大宮の因縁の始まりは明治2年です。

  • 県庁所在地をめぐる浦和と大宮の争いは、どのような経緯で始まりましたか?

    -県庁所在地をめぐる争いは、明治政府による幕府直轄地の管理化と府県の再編によって、武蔵県の概念が成立し、その県庁所在地をどこにするかという問題から始まりました。

  • 明治2年に大宮県が成立した後、なぜ名称が浦和県に変更されたのですか?

    -明治2年1月28日に成立した大宮県は、同年9月に名称を浦和県に変更しましたが、その理由についての記録が乏しく、浦和の方が東京に近く利便性が高かったという程度の説明しか残されていません。

  • 浦和と大宮の間の因縁について資料が少ない理由は何ですか?

    -この因縁について資料が少ないのは、歴史が勝者によって書かれるという側面と、浦和がこの争いの勝者として、不都合な事実を公にしたくないという意図があったからと考えられます。

  • 浦和と大宮の争いにおいて、県庁所在地の変更が大きな出来事であるにも関わらず、なぜ扱いが軽いのですか?

    -県庁所在地の変更が大きな出来事であるにも関わらず扱いが軽いのは、記録が少なく、具体的な経緯や理由が詳細に残されていないため、歴史の記述としても表面的な扱いに留まってしまっているからです。

  • 浦和と大宮の争いにおける、与野の位置づけは何ですか?

    -与野は浦和と大宮の間に位置する町であり、甲州街道と日光街道をつなぐバイパス沿いに発展したため、浦和大宮とは異なるリーグに属しているという位置づけです。

  • 浦和県と大宮県の統合は具体的にいつ行われましたか?

    -浦和県と大宮県の統合は明治2年9月29日に行われ、大宮県は浦和県と解消されました。

  • 明治政府が県庁所在地を決定する過程でどのような課題がありましたか?

    -県庁所在地を決定する過程では、既存の地域間の競争、治安維持にかかる費用、地元住民からの苦情など、多くの課題がありました。

  • 浦和が県庁誘致運動を行った時期はいつですか?

    -浦和が県庁誘致運動を表面化させたのは、明治2年6月の中頃でした。

  • 浦和と大宮の争いについて埼玉県の正式な歴史書や新聞はどのように記述していますか?

    -埼玉県の正式な歴史書や新聞は、この争いについてほとんど触れておらず、浦和の資料も大宮の不利な状況を示唆する程度で、具体的な経緯や詳細は記されていません。

Outlines

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🏰 浦和と大宮の歴史的確執の起源

このセクションでは、埼玉県内の二大都市、浦和と大宮の間に存在する長い確執の起源について説明しています。この確執は、明治時代初期の県庁所在地を巡る争いに端を発していることが指摘されています。明治政府が全国を再編する中で、浦和と大宮はともに県庁所在地となる権利を争いましたが、最終的に浦和がその地位を獲得しました。しかし、この出来事の詳細は歴史の記録に残っていないとされ、実際のところは不明な点が多いです。著者は、このテーマを慎重に、しかし詳細に掘り下げることを目指しています。

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🚆 浦和と大宮間の確執の現代的影響

このパートでは、明治時代の県庁所在地争いが現代にもたらした影響に焦点を当てています。浦和が勝者として歴史に名を残した一方で、大宮側の記録は乏しいことから、その確執が今日の両市民の関係性にどのように影響しているかを探ります。著者は、この長年にわたる確執が両都市間の文化や交流にどのように現れているかを説明し、浦和と大宮の民間伝承や共通認識にどのように根付いているかを解析しています。また、埼玉県全体の歴史的文脈において、この確執がどのような役割を果たしているのかについても議論しています。

10:02

📜 浦和県成立とその影響

最終セクションでは、浦和県の成立過程とその後の影響を検証しています。浦和が大宮を差し置き県庁所在地となった経緯と、その決定が両都市間の関係、特に大宮の立場に与えた長期的な影響について詳細に分析しています。また、この争いが埼玉県内の他の都市、特に与野との関係性にどう影響を与えたかについても触れています。この確執の歴史的背景と、それが現代の埼玉県の地政学にどのように反映されているかについて、深い洞察を提供しています。

Mindmap

Keywords

💡浦和と大宮

浦和と大宮は、埼玉県内で互いに競合する二つの地域です。このビデオでは、両地域間の因縁とその歴史的背景に焦点を当てています。特に、県庁所在地を巡る争いが、現代まで続く浦和と大宮の間の緊張関係の原因であることを掘り下げています。このテーマは、地域間の競争やアイデンティティの形成において重要な役割を果たしていることを示しています。

💡県庁所在地争奪戦

県庁所在地争奪戦は、浦和と大宮が埼玉県の県庁所在地としての地位を得るために行った歴史的な競争です。このビデオでは、この争奪戦が両地域間の関係にどのように影響を与えたか、またその結果が今日までどのように残っているかを探求しています。この争奪戦は、地域のアイデンティティや歴史的な記憶に深く根ざした出来事として描かれています。

💡明治政府

明治政府は、1868年に設立された日本の新政府で、このビデオの中で埼玉県の再編成や県庁所在地を決定する役割を果たしています。明治政府の政策と決定が、浦和と大宮の間の県庁所在地争奪戦に直接的な影響を与えたことが語られています。このコンテキストでは、明治政府の役割は地方行政の再編と中央集権体制の強化に重点を置いていました。

💡反切奉還

反切奉還は、明治政府による土地制度改革の一環で、土地や人々を県制に従って新しい行政区分に再編する過程を指します。このビデオでは、反切奉還がどのように浦和と大宮の地域に影響を与え、県庁所在地争奪戦の背景となったかを解説しています。この制度改革は、日本の行政体制の近代化と中央集権化に向けた重要なステップでした。

💡武蔵県

武蔵県は、明治時代初期に存在した日本の県の一つで、現在の埼玉県の一部を含んでいました。このビデオでは、武蔵県がいかにして浦和と大宮の間での県庁所在地の競争の場となったかを説明しています。武蔵県の概念は、地域間の競争を理解する上での重要な背景情報を提供しています。

💡大宮県の成立

大宮県の成立は、明治2年に大宮が一時的に県庁所在地として認定された出来事を指します。しかし、このビデオでは、その後浦和県に改名され、結果として大宮が県庁所在地の地位を失った経緯が語られています。この出来事は、浦和と大宮の間の緊張関係の核心にあるエピソードの一つとして取り上げられています。

💡浦和県の成立

浦和県の成立は、明治2年に大宮県から名称が変更され、浦和が埼玉県の県庁所在地となった出来事です。このビデオでは、この名称変更と地位の変更がどのようにして行われ、その影響が現代に至るまでどのように残っているかを探求しています。浦和県の成立は、地域間の競争とアイデンティティの問題に深く関わっています。

💡資料の欠如

資料の欠如は、浦和と大宮の間の県庁所在地争奪戦に関する歴史的記録や資料が不足している状況を指します。このビデオでは、この情報の不足が、事件の全貌を理解する上での障害となっていること、そしてそれがなぜデリケートなテーマであるかを説明しています。資料の欠如は、歴史的出来事の解釈における困難を示唆しています。

Highlights

埼玉県の浦和と大宮の因縁は、県庁所在地を巡る争いに起源を持つ。

この戦いは、明治2年に始まり、歴史は「勝った側が作る」と言われる中、多くは語られていない。

資料に忠実に、妄想は控えめに1年を費やして解明する。

明治政府は全国を府班剣の3つに分け、明治2年に反切奉還を断行。

大宮は、県知事から便利で合宿にも適した土地として庁舎建設のリクエストが許可されたが、後に浦和県に変更。

大宮県から浦和県への変更は、浦和の方が東京に近く利便性が高いという理由であった。

浦和と大宮の争いは、殴った方は忘れがちだが、殴られた方は記憶に残る。

大宮には県庁所在地にふさわしくないという報告書があり、浦和の県庁誘致運動が活発化。

大宮氷川神社で県長引き止めの祈願を行うが、結局浦和に県庁所在地が確定。

浦和の勝利には後ろめたさがあるかのように、多くの資料では触れられていない。

埼玉県の正式な歴史書や新聞も、この出来事についてはほとんど触れていない。

人口で見ると、大宮が浦和より多かったが、勝った側が歴史を作る。

浦和と大宮の戦いは、模作の中にあったとされ、多くの出来事が公にされていない。

埼玉県はこの7文字(県庁所在地)をどのように扱うかが今後の課題。

浦和と大宮の歴史が1つになろうとしている現代でも、その背景には深い因縁がある。

Transcripts

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どうもこんにちはケゴちゃんです作食です

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が今回は埼玉県民の共通認識でありながら

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いまいちその理由がわからない浦和と大宮

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はなぜ中が悪いのか大きなテーマです数回

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に分け掘り下げていくその第1回目とさせ

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ていただきます県庁所在地を取り合ったん

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だろうはい浦和と大宮の因縁は健所在地を

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奪い合ったの経緯にターンを発しています

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ただ歴史は勝った側が作ると言いますが

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この戦いに勝利した浦和に多くを語り

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たからない雰囲気があり実際どのような

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出来事があったのかきちんと歴史として

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残されていないような気がするんですねな

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のでデリケートなテーマではあるのですが

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資料に忠実に妄想は控えめに1年を費やす

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覚悟で商人をさせていただきます浦和大宮

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浦和を前に表記した理由は相を順気い使っ

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ていきましょう

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私明治政府第2のクーデターと言われる

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背反地権は明治4年ですが浦和と大宮の

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戦いはそれより少し前の明治2年に始まり

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ます気持ち丁寧にお話しますねみんなここ

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苦手だと思うので慶王3年明治の前の元号

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ですねの体制法官徳川将軍家が政権を調定

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に返す及び時間農地将軍徳川吉信が誠意

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大将軍のポジションと徳川家の所領を調定

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に返すにより旗本量を含む幕府の直轄地が

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明治政府の管理化に置かれることになり

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ました明治政府は全国を府班剣の3つに

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分けることを決め明治2年に今度は岩月班

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や川越班班の土地とそこに住む人を長底に

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返す反切奉還を断行します反を潰すのは

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大変なことなので今すぐはやらないけれど

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これでも反は国の一地方行政区幕府の直轄

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地は一足先に太県にしちゃうぞということ

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ですね不FAM県産地性と言います神社や

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お寺も徳川家康から主因上を賜ったなどと

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言いますが将軍家より領有を許されたもの

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が多くありましたのでやはりこちらも自社

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の運営に最低限必要な土地だけを残し段階

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的に没収されました住職さんや神主師さん

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が昔はもっともっと広かったいうのはこれ

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ですねこの負半ケ産地性に幕府の直轄地で

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あった浦和と大宮のある足立軍が

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引っかかりまず武蔵県という概念のような

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ものが成立ちょっとここ説明しにくいです

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明治政府も模作の中にあったということ

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ですねそしてその時の県知事より大宮は

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支配地内で最も便利で合宿にも差してえ

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ない土地柄であるので身分の高い方のの

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宿泊にも耐えられる場所であったここに

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庁舎を建設し大宮県としたいという

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リクエストが提出されそれが許可され明治

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2年1月28日大宮県が成立ところが同年

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9月大宮県は名所を浦和県に変更この事実

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をほぼ全ての資料は大宮県を浦和県と改め

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た大宮県は間もなく浦和県に解消したもし

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私が無人島に1冊乗っていくならと問わ

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ならば迷わず選ぶであろう全幅の信頼を

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寄せている埼玉県行政師ですら全4巻なの

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で4冊になっちゃいますが明治2年9月

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29日大宮県は浦和県と解消されたわずか

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数文字のみ丁寧なものでも浦和の方が東京

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に近いため利便性が高かった程度の文章で

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処理してしまうのですが店長所在地懸命の

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変更という大きな出来事の割には扱いがパ

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すぎますよね大宮趣にありました浦和のク

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現国と同じですね殴った方は忘れてしまう

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けど殴られた方はずっと覚えている浦和の

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クにより大宮のイ分です県長を奪われた

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大宮だけがこの時のことを記録に残して

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くれましたあ浦和の方むむって感じですか

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でもね私もね浦和にはむむって感じなん

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ですよこの出来事を記した漁師の趣旨です

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まずは大宮師大宮に店長者を取り立てる

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ことを願い出て一旦許可されたが3月28

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日には当分見合わせようとの指示を受けた

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次浦市大宮市に県庁を建設することを

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願い出たが当分見合わせるよう指示され

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一旦許可されたの7文字が見当たらない

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どころかちょっと文章がガチャガチャして

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いる抜き取られた形跡すらありますよね

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これをどう捉えるかはもちろん皆さん

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それぞれなのですが私は君に店長者の建設

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が大宮の地に一旦許可されたという事実を

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浦和は世間様に知られたくないんだなと

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受け取りました浦和は物語の主人公であり

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戦いの勝者ですなのに後ろめたいことでも

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あるのかとどでだまりを決め込んでいる

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手配があるその結果現代の浦和大宮民も

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うちには新幹線が止まる賢章ウナギチープ

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なあるあるでしか盛り上がれなくなって

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しまった私も資料を集めるのにとても

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とても苦労をしましたでもまあいいです

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ジン埼玉市市通子編原子古代1勝者浦和と

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歯車大宮の歴史が今まさに1つになろうと

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しています近現代変の観光はまだまだ先に

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なると思いますが埼玉市はこの7文字を

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どのように扱うのでしょうか今から

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ワクワクが止まりませんそれでは大宮趣旨

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に沿って店長が浦和に奪われるまでの経緯

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を見ていきますね

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大宮県は成立しましたがこの時の県知事は

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大宮には着任せず東京の暴露町で全ての

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執務を取っていましたしかしそれではまだ

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高崎戦の電話もありませんので何かと不便

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が生じますよね大宮県は大宮に店長者を

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建設することを願い出て政府より正式に

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その許可を受けましたが明治2年3月18

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日県長者の件だが当分見合わせるよう通達

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する

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先日許可するとおっしゃったばかりでは

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ないですか7文字の件ですね県庁者の建設

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は当分という言葉を使ってはおりますが

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事実上凍結されてしまいました大宮県は

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高島屋のある場所にあった九州班が高がり

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の際に使っていた神夜北沢さんのオタです

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漫画会館の北沢楽天の北沢さんです北沢

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さんの転生18年組元々は豊城サイドの

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武将の家柄です高の屋上にある北沢稲神社

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が大宮県一の痕跡だと思いますこの位置に

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仮長者を設置し役人を配置一部の事務仕事

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のみを大宮で行うことにしましたそして

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タイミングは分からないのですが明治政府

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は巡察師を派遣し各地の実情を探索させて

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います大宮県の様子を記した報告書が残っ

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ているので見ておきますね大宮県の借長者

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は当初大宮市南卓に建設したその後正式な

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検者建設の場所を探している浦和宿

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あるいはは世町または別所村沼か村のうち

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に決めかねているまた県庁誘致のため各地

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で競争が起きているらしい早く当な場所を

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決めることが民進統一のために望ましい

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大宮県は政務に厳格なのはいいが治安維持

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に費用がかみ苦情が出ている和宮神社領に

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神剣性が浸透していない銭相場に違反が

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あり真剣から苦情が出ている担当者の仕事

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に不公平があることまたの無駄遣いがある

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東京在住の知事に注意させた方がいい後半

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はほぼ悪口だったような気もしますけど

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どう思いますえ与野が県庁所在地にそう

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ですね与野に健聴があれば色々丸く収まっ

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てたかもしれませんね与野に触れておき

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ます与野は浦和大宮に挟まれた小さな町と

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捉えている方が多いと思うのですが与野の

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本体は世本町鉄が挟まれてもいなければ

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浦和大宮とは縦に並んでもいないですね

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浦和大宮は中仙道沿いに発展した

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隣り合わせの宿場町でしたので江戸時代

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より意識し合う関係だったはずですが与野

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は甲州街道と日光街道をつなぐバイパス

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沿いに発展した町浦和大宮とは言なれば

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所属するリーグが違いました与野が甲州

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街道を日光街道リーグに属していた痕跡が

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あるので見ておきますね新大宮バイパス

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上峰のガスト正面にある小蔵様軍ですその

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中の1つににタシ道甲州道ですねこの道は

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現在の国道20号東京の日野につがってい

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ましたしかも与野本町は大商業都市川越と

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も連結していたのでこの辺りではとても

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存在感のある町でした街並みに影が若干

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残ってますよね浦和と大宮の戦いももしか

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したら見にくい争いをしておるの高の見物

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をしていたかもしれませんこの時点では

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まだんこの後うちになんかあんの教えない

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それはともかく浦和宿別所村浦和の影が

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この報告書でくっきりと明確になりました

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そしてえ浦和が6月の中頃だったようです

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ついに浦和が県庁友運動を表面化浦和の時

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の声を聞いた大宮は大宮氷川神社に県長

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引き止めの気筒を7日間行うことを以来

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なんとかまた大宮に戻ってください岸とも

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取れる文章を作成し提出しましたが8月今

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の埼玉県庁のある浦和の鹿島台に江戸時代

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までこちらの小さな神社鹿島神社の領地で

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あったので鹿島台と言います浦和県県長者

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の建設が聞こ翌9月に大宮県は名称を浦和

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県と改めまし

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た記録が乏しすぎるため想像するしかない

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のですが3月の当分見合わせるよう通達

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するから大宮は県庁所在地にふさわしく

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ないと言わんばかりの報告書6月浦和の

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県庁誘致運動の表明

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活発化8月浦和県庁者気候これも都内の数

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剣のお屋敷を一するだの予算が足りないだ

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の良民に負担を仕るなの農民一期を懸念し

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てこの時の検知時が反対を表明するなど

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すった問題がありましたで9月の浦和県

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成立このスピード感3月の時点ですでに

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浦和にやられていた実際抜き打ち的だった

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という説もあるのですが私もその線しか

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ないのかなと思うんですね浦和と大宮が県

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初代地を奪い合ったのは事実ですしかし

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明治2年の第1ラウンドは出レースだった

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浦和の立てを大宮が知った時にはもう何も

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かもが決まっていて大宮はただ浦和に変更

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するから通告を受けただけだった浦和の

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健聴誘致運動も単なるポーズだった以上の

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出来事について埼玉県の正式な歴史書新聞

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埼玉県主数編わ気持ちがいいくらい全く

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触れておりません浦和の資料も同様です

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それどころか浦和の資料は大宮に適当な

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調車が得られなかったためなんか大宮が

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建物がなくて困ってるって言うからお前ん

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とこもなかったから慌てて立てたんだろう

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がよだめだめよ大宮仕方なくとも取れる

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ような一分までもを残しています

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ウィキペディアに至っては当時浦わしが

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権一内で最も人口が多く賑いを見せていた

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のが移転の理由となった爆末店舗14年に

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成立したある資料の数字を抜き出しますね

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人工大宮1508人浦和1225人わび

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2223人賑と言っているので中仙道沿い

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の二子の数も見ておきましょう鴻ノ巣58

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桶川36上尾41大宮25浦和15わび

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23大宮には脇本人が10あんだよ小田原

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が8箱根が7その大宮を差し置いて1番だ

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と歴史は勝った側が作るのよ

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[音楽]

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おゃ浦和が最も賑わっていたなんてことは

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多分ないですけれど明治初期ってこんな

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感じなのかもしれません誰もが模作の中に

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いました口を閉ざしたい目をつりたい脚色

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をしなければ辻妻が合わない出来事も

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きっとたくさんあったはずですだからこそ

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面白い県庁所在地争奪戦もうみんな

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少なからずしくじり先生で全話を予定して

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います1年ちょっとかかっちゃうかな思う

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のですがどうぞよろしくお願いし

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[音楽]

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ます