ブッダの生涯 16(佐々木閑「仏教哲学の世界観」第2シリーズ)
Summary
TLDRこのスクリプトは、書店ボーリンの話題を通じて、お釈迦様が提唱した中道の教えについて解説しています。中道は、修行において適切な姿勢を保つことの重要性を強調し、過度な厳しさや怠けていることのどちらも誤りとして指摘されています。お釈迦様の教えは、自己の力で変化を求める仏教の本質を反映しており、信仰だけに頼るのではなく、自らの努力を通じて進歩を遂げることを促しています。また、輪廻や言語表現の問題についても触れており、現実を正しく理解するためには言葉に縛られず、本質的な世界を見つめ直す必要があると述べています。
Takeaways
- 📖 書店ボーリンの話題を通じて、修行の姿勢に関する教えが述べられました。
- 🙏 お釈迦様が指導した中道の教えは、修行において適切なバランスを保つことを指しています。
- 🤔 修行において過度な緩しさや厳しさは避け、中道を選ぶことが重要です。
- 🌟 仏教の本質は、信仰のみに依存する宗教ではなく、自己の力で変化を求めることにあります。
- 🔦 自己の力で変革を起こすことを奨励するお釈迦様の教えは、仏教の核心的な理念を表しています。
- 🌿 中道の教えは、仏教の宗教的な形態ではなく、個人の成長と自己改善に関連しています。
- 🎯 仏教の目的は、輪廻を超え、永続的な幸福を達成することではありません。
- 🌌 仏教は、個々の存在が継続的な状態の変化を経験していると見なしています。
- 🚪 輪廻と断滅の概念は、仏教においては異なる解釈と理解が存在します。
- 💭 言葉と表現は、現実を正しく理解する上で役立つものの、現実そのものに等しいものではないことを理解することが重要です。
Q & A
書店ボーリンとは何ですか?
-書店ボーリンは、お釈迦様が書店の修行者として最初に5人の日国を磨いてになったという話です。
お釈迦様が提唱した修行の姿勢は何ですか?
-お釈迦様が提唱した修行の姿勢は、怠けてダラダラすることなく、厳しすぎることもせず、許すニーズと厳しさの中間を行くことです。
仏教の本質は何にかかわる問題ですか?
-仏教の本質は、宗教的な信仰に基づくものではなく、自分自身を変える努力を通じて進むことです。
仏教において中道とは何を指すのですか?
-仏教において中道とは、修行の時や条件・断剣の考え方において、極端を避け、適切なバランスを保つことを指します。
お釈迦様の遺言は何ですか?
-お釈迦様の遺言は「自灯明法灯明」であり、自分が不在になった後も、残した教えに従って自分自身で努力を続けることを意味します。
仏教の輪廻とは何ですか?
-仏教の輪廻とは、死んだ後、次に別の形で生まれて再スタートできるという考え方です。
仏教において「私」という実在は存在するのでしょうか?
-仏教においては、「私」という実在は存在しません。代わりに、様々な要素が関係性の中で集まって常に変容しつつあるものがあります。
大乗仏教で言語豹変の奇形とは何ですか?
-大乗仏教で言語豹変の奇形とは、言葉によって現実世界を切り刻んで表現しようとする際に生じる言葉の世界と現実世界の間の違いを指します。
仏教はどのように現実世界を見aelalaを正しく見ることができない原因を解明していますか?
-仏教は、現実世界を見aelalaを正しく見ることができない原因として、言葉によって世界を切り刻んで表現する際の言葉と現実の間の違いを指摘しています。
仏教の目的は何ですか?
-仏教の目的是、自分自身を変える努力を通じて苦しみから解放され、真の幸せを見つけることです。
仏教の教えはどのように様々な人々に役立つのでしょうか?
-仏教の教えは、全ての人々に役立つわけではなく、苦しみの中で生きている人々のために存在し、彼らが現実を受け入れ、自分自身を変える力を得られるように導くことができます。
Outlines
📖 書店ボーリンと修行の姿勢
この段落では、書店ボーリンでの釈迦様の教えとその意味が説明されています。釈迦様が書店ボーリンで最初に5人の日国を磨き、道を教える様子が語られています。その教えの核心は、修行において適切な姿勢を持つことであることが強調されています。 一般的に、修行においては怠け者になることは良くありませんが、過度に厳しい修行も誤りであるとされています。その代わりに、穏やかな厳しさと懐の深さを持った中道を選ぶことが重要です。これは、仏教の根本的な教えである「中道」に関連しています。 また、この段落では宗教的な信仰ではなく、自己の力で変革を起こすことを強調しています。釈迦様の教えは、自分自身を磨く努力を通じて達成される幸福や目標を示しています。これは、仏教の教えが自己の成長と努力を重視するものであることを示しています。
🌟 中道と輪廻の理解
この段落では、仏教における中道の概念と輪廻の理解方法が説明されています。中道は、過度な厳しさと緩やかさを避け、バランスの取れたアプローチを取ることを指します。このバランスは、仏教の中心的な教えの1つであり、適切な修行方法を指しています。 また、輪廻についても触れられています。仏教では、個々の魂や自実在は存在しないとされ、代わりに様々な要素が集まり、集まったり散ったりする「雲のような状態」が「私」を形成しています。この状態は死後も続くものであり、次の生命に変容して続いていくとされています。 この理解は、仏教の根本的な教えである「空の教え」に関連しており、現実を正しく捉えることができない原因を探求する大乗仏教の思考につながります。言葉や概念が现实と隔離し、誤解を生むことを示唆しています。
🌐 言語と現実の関係
最後の段落では、言語と現実の関係、そしてそれが仏教の教えにどのように影響するかが探求されています。言語は、現実を切り刻んで分類し、誤解を生む原因となるとされています。私たちは言葉によって世界を理解しようとしており、その過程で現実の真の姿を失うことがあるとされています。 この問題は、仏教の大乗思想において中心的な位置を占めており、現実を正しく見ることができない原因として、言葉や概念による枠組みが指摘されています。仏教は、これらの枠組みを超え、より深い理解に達するよう勧めています。
Mindmap
Keywords
💡書店ボーリン
💡日国
💡修行
💡中道
💡開くだ出す
💡自浄努力
💡輪廻
💡断剣
💡言語豹変
💡大乗仏教
💡酋長
Highlights
書店ボーリンの話から始まる
お釈迦様が書店ボーリンで最初に5人の日国を磨いてになった話
修行をするときの姿勢について語られた
修行に向かうべき姿勢と向き合うべき方法の教え
怠けることのないように、厳しすぎることも誤り
ゆるさと厳しさの中間を理解すること
修行の第一歩として中道の教え
仏教の本質にかかわる問題
仏教が宗教として中道を行う理由
お釈迦様の教えは信仰の力によって幸せを得るためではなく、自己の変化を目指す
自浄努力による修行の重要性
お釈迦様の遺言:自灯明法灯明
仏教における中道の教えの意義
仏教の目的は自己の林レイ(輪廻)の終わり
条件と断剣:仏教における生死観
仏教の立場から見た「私」の実在
輪廻の理解:変わらぬ実在性がないこと
大乗仏教と言語表現の問題
言葉で切り刻まれた世界と現実世界とのずれ
中道の教えの様々な側面
Transcripts
皆さんごきげんよう
書店ボーリンの話です
前回お釈迦様が書店ボイで最初に5人の日国を磨いてになったのが
ちゅーど真ん中を行く道
というものだというお話をいたしましたそれでまあ
大阿久のお話いたしましたですね
書店ボーリンでお釈迦様がを時になったと言われている中同は修行をするときの姿勢
ですね
我々はどのようなその立ち位置で修行に向かうべきかと向き合うべきかというお話でし
たこれは当然
5人の挽くという今から
一緒に修行をする修行仲間に対して解くわけですから当然そこから始めるのは当たり前
ですね
でその教えはもちろん怠けてダラダラするのは良くないけれども
逆に厳しさだ子を追求してきつい修行をすればそれでいいんだというのも間違いだと
それも間違い
であるというのが中どうでしたね
許すニーズそして厳しすぎる
ですねこのゆるさと厳しさの中間を行くというこの姿勢をまずは理解せよと
だからこれ修行の第一歩ということなんですね
でこのその中度の教え
まあ聞くとね皆さん9トンんまぁそうかなというふうに思うだろうと思うんですが
よくよく考えていますとねこれはの仏教という宗教の本質にかかわる問題なんですね
開くだ出す前に指差してしまう
また失敗しましておりますねだしてからさ
ここに書いてあるんですねこのゆるさと厳しさの中間をいくということですねどうすい
ませんそうで8これ
ねあーあの
普通に考えると当たり前のように思うんですが
これ酋長ですから仏教は宗教なのに宗教なのに中間を行けと言うんですよ
これはあのよく考えメってみると非常にユニークな教えですよ
例えば仏教がね例えばですよ
大釈迦様という超人間的な超人的なスーパーナチュラルな存在がいてそのお釈迦様を
信仰することによってそのお釈迦様に幸
ひたすら願うことによってわれわれは
a
将来の
ゆっこれから先の喜び幸せが手に入るのだということになっていましたらですね
中間おいてなんていう言葉出る理由があるひたすら
進行せよひたすらあの
願いと
いうわけですねそのお釈迦様に対する信仰の力が強ければ強いほどその宗教的なる
あのその力というものは私にとって戻ってくるんだ
だから
あの
強ければ強いほど信仰の力が強ければ強いほどその人はその大釈迦様との関係の中で
幸せをつかむことができるというのが当たり前の良い方なんですしかしそう言わない
でしょ
ゆるーすニーズ強すぎずという
この言い方ねこれはなぜかというとこれは仏教という酋長が進行する
何かに校すべてを捧げるというそういう宗教ではなくて自分で自分を変えていくという
まあ自浄努力自分の力でその行っていいかな
いればならない収去修行の酋長だからです
若いですかだからその主様が厳しすぎるとかえってスムーズに行きませんよということ
を言ってるわけなんですねだからここで中道が一番最初に出てくるということは仏教と
いう宗教が進行によって成り立つのではなくてむしろそれは自浄努力自分の力
で頑張っていくということをがんばるって言うとよくないね頑張るという言葉は使わ
ないほうがいいですね
自分の力で自分を変えようと試みていく
そういう宗教だということを見事に表しているわけです
これはお釈迦様の遺言にもこのことを洗われていてこの面白いですねお釈迦様は一番
最初にを時になった
教えが中道で亡くなる時に最後にを時になった教えがここにある自灯明法灯明つまり
お釈迦様がいなくなって女版に入っていなくなった後に何をよりどころにしていったら
いいですかというその質問に対する
者かの答えが
自分自身ではそして私が土地残した
今から私死んでいくけれどもなくなってもいなくなるけどもその間に今までにといた
その残す教え
この腰へとそしてその教えに従って自分で努力をしていく君たち一人一人のその努力が
君たちの唯一のよりどころだと言ったんです
ですからここにもまたねどこにもその何かをひたすら信じなさいそうすればあなたは
救われますというそういう星は遠いもないでしょ
これはその最初の中道とそれから自灯明法灯明2つまり一番最初と一番最後が見事に功
完結して一つの閉じた体型になっているということなんですねそういう意味でこの中道
っていうのはちょうど聞くとまあ良い教えじゃないのみたいねあと記事な蓮とこあるか
もしれませんが呼ぶ予告
考えていますとこれは仏教の本質の中の本質を語っている教えだということになるわけ
なんですね
ようじゃないですかあで一旦創業者様の here 続いてお釈迦様別のおせっなさい
ますけどそれはまた次回としておい
いうこの中道ということについてもう少し詳しい説明をしていきたいとおもいます
実は仏教の世界の中には中道と呼ばれる
違った異なる教えが何種類があるんですね
で
あの
今まではその書店ボーリンの時の修行の時の姿勢としての中度
というのをご紹介したんですが全く別の
ブーブーに属するうー道という教えもあるわけでそれを今 here 今回ちょっとご
紹介をしておこうと思う眠い中同2つ目ですねまぁこれ兄とか言ってその他の柱と言っ
て3種類上げておきました
一つがその上手
んと断剣を離れるという意味での中道なんですね
これも古いを腸の中に現れてくるものであの
多分これもお釈迦様がおっしゃったことだろうと思うんですね初転法輪ではないけれど
もそのアートにお弟子さんたちに教えになった
中度だと思うんですが
これちょっとどういうものかといいますとね
条件というのは私が死んだ後どうなるかという話で死んだ後も今と同じこの私という
ものがずっとそのまま続いていくんだという考え方ですねまぁ言ってみればこの佐々木
という人間が死んでも同じこの佐々木というものが
何か姿形は変わっても私は刺さりレスっていうのがまたずーっとその後もこう続いて
生き続けていくというこれが条件です値段権というのはここにいるこの私というもの私
という子の存在は死んだらさ
ここで打つと断ち切られて終わりになるという考え方これ段犬なんですね
これどちらも
仏教の教えから言うと正しくないのでこれ極端ですね
ドイツまででも今のままの私が行けついていくっていうのとある時を持ってこの私と
いうものがプツッと断ち切られるのはちょうど正反対の180度違う場所に置かれた
ものの味方ですからこのどちらもが
正しくないのであってその中間を考えていけとその中間が正しい者の味方であるという
こういう意味での中道なんですね
書店ボーイの中度とは全然違いますね
それでこれ聞いてちょっとこの疑問に思われる方がおられると思うんですね
仏教の目的は女版でしょうね版というのは今の私のこの生きている人生が終わった
ところでそこにそこを持ってもうリンレイしなくなることなんです
リンレイしなくなるということはもう
生まれ変わらなくなることだからそこでプツンと切れるじゃないですか
だったらあの仏教が言ってるのは断剣じゃないんですかという疑問が当然出てくるん
ですが
この条件と弾県の基本的なベースには何があるかっていうとね変わらぬ事故という
全景があるんです私という迎え
し昔からずっと変わらずに続いてきたこの私という
あのなんとか実態ですねがあって
難しい
わかりやすい盟友と佐々木という魂です私という魂がずっと存在していてその魂が
次に死んだ時にもまた次の人生次のせいでその同じ魂が続いて行くだろうと考えるが
上位10%でずーっと続いてきた魂がこれで死んだ時を持ってその魂が終わりになると
いうのが断剣だというんですね
で仏教の基本は何かというとその魂と
有用な
変わらず存在していく私という実在はないというのが仏教の基本なんですがそこが条件
だんけん療法と仏教が違うところなんですね
仏教の場合には私という瓦の実在などというものはないのであって
いろんな要素がさまざまな関係性の中で集まって常に変容しつつあるものが時間ととも
にね常に高変わりつつあるその雲のような状態が私何だと言うんですね
でそれが死んだらまた次の形の別の雲を形成して続いていくんだというわけなんです
よく聞かれる質問があってね
そういうその本質的な実在としての私がないのにいったいディンね d ねって言う
けどそれは輪廻する
何が輪廻するんですか
臨月の本質は何ですか倫理の本体はなんで輪廻するのは何がりんりんにするのですかと
いう質問をよく聞かれるんですがもうその質問の中に何かが輪廻するというふうに実在
性変わらぬ実在性を設定した質問なんですね
何があって言ってし入った途端にもその
凜々花する主体として変わらぬものがどこかにあるはずだという前提でその質問が出て
きてるわけでこの質問をした瞬間にもその質問には仏教的には答えられないわけです
なぜならば仏教者何がというものなん
何もないんですよって言って悪いですからこの質問は泣いたんだろう
だからもし物調的にそれに応えることのできる質問としたら銀ねって何ですかと聞かね
ばならぬのですね何が輪廻するんですかじゃなくて
てぃんねって何ですかと聞くんですそうすると輪廻というのはさまざま
な要素が集まってある一定の川の定まらないけれども全体として一つの集合体をつくっ
ているものが生きていって死んでまた次のもの次の集合を与えと変容していくそれの
繰り返しですと
ただしその集合体の中に来僕があるんですよ
記憶があるで今私は過去のことを覚えていませんけれどもまた次の状態次の状態に
変わっていった時には記憶が
その過去世を思い出す記憶を持つ生まれ変わりもあるわけでその時に私の全ての母個性
をまた思い出すんです実はつながってたんだというふうに思い出すんだというわけで
基本が繋がってないから平気ですというわけにいかないんですね
そのつながりの中で記憶を取り戻して自分のすべての過去を見通す瞬間も状態もある
わけだからそのと時に恐ろしい
苦しみだけでできている自分のあり方をまた際に資することになるという話でね
あのながらに
難しいですね輪廻をステキだと思う人もいるんですよ
いつまででも生き続けてまた生まれ変わってきて再スタートできるじゃないかと願う人
もいいます
その一方で生きる苦しみを心底
味わって
この苦しみの中で私は生きているということを実感したし誰にとっては倫理はその
苦しみがいつまでも終わらないんですよと
宣告されるようなものですから
今の苦しみまた味わえますよということを言われるわけだからその人にとっては林では
区の海苦悩の海に
他ならない苦しみの海でもがいているという状態になる輪廻はそれをどう捉えるかに
よって人によっては幸せの
その源泉ともとらえられることもあるし
そしてそれが苦悩の海という風にとらえられることもありますそれはその人がどのよう
な状況
ようにありどのような体験をしどのように今まで生きてきたか
によってそれぞれ違うは者なんですよ
だからこそ物調というのはすべての人に役立つ酋長なのではなくて苦しみの中で生きて
いると実感してしまった人のための酋長として存在しているということなんです
言語豹変による奇形これはあの
a
忘れてはいけませんこれはあの仏教が次第にまあ哲学的な思考を含む深めていきますと
なぜ我々は現実の世界を正しく見ることができないんだろうか
現実世界を正しく見ることができないから私たちは苦しむんだけれどもその大元の現実
を見ることのっ
英智ない根本人はなんだなんだということを突き詰めるようになっていって
その結果としては大乗仏教の中で主に出てくるんですがそれは言語表現なんだとつまり
現実の世界を自己私たちは言葉によってレッテルを貼って勝手にこう9分
にしてそれで表現しようとしているときにその言葉の世界と現実世界の間にずれが生じ
てくる
で言葉で何何は何ないです
何何は何内でありませんというふうに言いますわねその言っている言葉を言葉を発する
段階でもうすでに我々はこれはこれですこれはこれでないですというふうにはっきりし
ロークの区分をつけてもの事
片方ルブタンも考えているということです
つまり本来ははっきりと9分なんかできない全体として一つの世界としてあ
存在しているものを言葉によって
まあ言葉というナイフでね
世界を切り刻んでいくわけです
そして切り離して言って一つ一つの断片には分けてその言葉という断片をつなぎ得て
何かを表現するわけです
でその表現した世界が元のキル
ナイフで切る前の世界と同じだと思い込むわけですね
だけどもそうじゃないんだと聞いはじぇてしまった言葉によって表にした段階で我々は
世界を切り刻んでしまってるんだ
だから本当の世界を知りたい時には言葉で表現されているものに頼らずにその
だけども言葉以外のことでは表現できませんから
言葉との
表 new の中間おいけど
a はあります a はありませんだったらある
内の習慣の状態を想定してい
a はこれです a はこれではありませんと言うのならばこれであるとこれでないと
の中間の状態を想定していて塗装しないと
切り刻む前の世界にまでたどり着けないという味なんですねこれがまた1そのその中間
を行くという
感じの音
中道になっていく
た中道という単語は一つなんですが実は言ってる内容は色々と違うことを言っていると
いうわけなんですね
今回は書店ボーリンの話をしていますからそのさとあの修行の姿勢としての中道お釈迦
様はマゾ時になったということを
ご紹介しておこうと思います
じゃあ次回は中道の後の次の教えについてご紹介していきましょうね
衰弱人があります
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