2024都市と環境4の1
Summary
TLDRこのスクリプトは、日本の庭園の発展について詳しく語ります。中国から伝わった漢字を使った庭園用語のルーツを説明し、日本の庭園の起源を探求します。古墳時代の祭祀遺跡や前方後円墳、そして古代の信仰空間の可能性を検討します。飛鳥時代に至って、日本の庭園は池と石積みの護岸を特徴とし、朝鮮半島の影響を受けながら独自の形態を発展させました。奈良時代になると、庭園の様式は直線的で石積みのデザインから自然風景的なデザインへと変化し、曲がりくねった池や自然石の使用が目立ちます。特に党員庭園は、奈良時代の庭園の様子を知る貴重な事例であり、国の特別名勝に指定されています。日本の庭園は中国の影響を受けながらも、独自の美意識と技術を発展させ、日本の文化の一部となっています。
Takeaways
- 🌿 日本の庭園の発展について、特に欧米とは異なる独自の歴史と特色を持つことが述べられています。
- 📚 中国の影響を受けながらも、日本の庭園は独自の用語と発展を辿ってきました。
- 🏯 古墳時代前期から中期にかけて作られた祭祀の遺跡が日本の庭園の起源の一つと考えられています。
- 🗿 飛鳥時代には、几何学的で石積みの池を持つ庭園が登場し、当時の朝鮮半島の庭園の影響を受けていたとされています。
- 🌊 奈良時代に入ると、庭園のスタイルは徐々に自然風景的なデザインへと変化し始めました。
- ⛩️ 平城京の中心部に近い場所に、当時非常に重要な庭園が整備されていたとされています。
- 🏞️ 党員庭園は、奈良時代の庭園の様子を知る数少ない例であり、2010年に国の特別名勝に指定されました。
- 📈 奈良時代の庭園は、直線的な石積みからゆるい勾配をつけ、小石を敷き詰めた形態へと発展しました。
- 🏯 飛鳥時代の庭園は、島の書遺跡のように台形で石積みの護岸を特徴としており、当時の文化を反映しています。
- 🗻 古代の信仰空間としての岩盤や巨大な岩が、日本の庭園の源流の1つと考えられる説があります。
- 📖 日本の庭園は、仏教が伝来するとともに、様々な技術や文化とともに発展し、独自の形態を確立してきました。
Q & A
日本の庭園の起源について、どのような説がありますか?
-日本の庭園の起源については、古墳時代前期から中期に作られた祭祀の遺跡である上の腰遺跡が有力な説です。また、古墳時代に造営された前方後円墳が日本の庭園の源流に位置するという見方もあります。さらに、古代の信仰空間としての岩盤が露している場所が日本の庭園の起源であるとする説も存在します。
飛鳥時代の庭園の特徴は何ですか?
-飛鳥時代の庭園は、池の形が幾何学的で、護岸が石積みで、石岡加工された石造物を置くという形態で、当時の朝鮮半島の庭園の形態と非常に近いものでした。
奈良時代の庭園はどのような変化を遂げましたか?
-奈良時代の庭園は、飛鳥時代の直線的で石積みの形態から、ゆるい勾配をつけ、小石を敷き詰めた形態に変化しました。また、自然風景的なデザインが見られるようになり、極致曲がりくねったような池が特徴的な形態とされました。
党員庭園とは何ですか?
-党員庭園は、奈良時代の非常に重要な庭園であり、2010年に国の特別名勝に指定されました。この庭園は、奈良時代の庭園の様子を知ることができる数少ない例の一つです。
日本の庭園における「草冠の縁」とは何を指しますか?
-「草冠の縁」とは、中国の影響を受けた宮廷の庭園施設に限って使用された用語で、動物園や動物飼育施設を指していたとされています。
日本の庭園における「円」とはどのような意味ですか?
-「円」は、日本の庭園に関連する用語で、果樹園や菜園などの農園を意味するようになっています。
日本の庭園における「円融」や「円塩」とは何を意味しますか?
-「円融」や「円塩」とは、皇帝の庭園施設に使われた用語で、現代の中国語ではエンディングという風に使われることがあります。
飛鳥時代の庭園と奈良時代の庭園の主な違いは何ですか?
-飛鳥時代の庭園は幾何学的で石積みの形態が特徴でしたが、奈良時代になると自然風景的なデザインが主流になり、曲がりくねったような池や自然石の形跡が目立つようになりました。
日本の庭園における「島」とはどのような存在ですか?
-「島」は、日本の庭園において、池に浮かぶ小さな陸地を意味し、庭園の景色をより多様化するために用いられる要素です。
日本の庭園の発展について、特に注目すべきポイントは何ですか?
-日本の庭園の発展において、特に注目すべきは、中国からの影響を受けながらも徐々に独自の形態を発展させ、自然風景的なデザインが主流となったという点です。
日本の庭園における石像の配置にはどのような意味がありますか?
-日本の庭園で石像を配置することは、当時よく見られた形態であり、宗教的な意味や美学的な効果を持ち、庭園の風格を定める要素の一つです。
日本の庭園における「山辺の島」とは何を意味しますか?
-「山辺の島」とは、日本の庭園において、山や岩盤が露しているような自然地形を模して作られた島を指し、庭園の自然美を表現する手法の一つです。
Outlines
🌿 日本庭園の起源と用語の由来
第1段落では、日本の庭園の発展について語り、特に起源について詳しく説明しています。中国から伝来した用語のルーツや、古代の信仰空間としての岩盤の崇拝、古墳時代の前方後円墳の周囲に池があったものなどが日本の庭園の源流に位置する可能性があるとされています。また、飛鳥時代に作られた祭祀の遺跡や、美智子匠による趣味線像の築造など、日本の庭園として記録されている最古のものが紹介されています。
🏞️ 飛鳥時代の庭園とその特徴
第2段落では、飛鳥時代の庭園について語られており、当時の庭園は池の形が幾何学的で、護岸は石積みという特徴を持っていました。また、飛鳥時代には仏教が伝来し、様々な技術や文化が持ち込まれたとされています。飛鳥時代の庭園は、当時の朝鮮半島の庭園の形態と非常に近いとされており、白ニシキの味噌などの記述も見られます。さらに、奈良時代に入ると様式が変わり、自然風景的なデザインへと転換したとされています。
🏯 平城京の庭園とその歴史的意義
第3段落では、奈良時代の庭園、特に平城京の庭園について語られています。党員庭園が復元され、2010年に国の特別名勝に指定されたことが触れられています。この庭園は、奈良時代の庭園の様子を知ることができる数少ない例の一つとされています。また、庭園の平面図や、当時の建築物の変遷、池の形の変化など、詳細な情報が提供されています。奈良時代の庭園は、自然石の形跡や石組みを用いたデザインが見られるようになり、日本の庭園文化における重要な一歩を意味しています。
Mindmap
Keywords
💡庭園
💡円庭園
💡草冠の縁
💡飛鳥時代
💡奈良時代
💡平城京
💡特別名勝
💡石積み
💡白木
💡神倉神社
💡石像
Highlights
日本の庭園の発展について話す。
日本語の庭園に関わる用語のルーツは中国。
円庭園の起源についての有力な説は古墳時代前期から中期に作られた祭祀の遺跡。
前方後円墳が日本の庭園の源流に位置する可能性。
古代信仰空間としての岩倉が日本の庭園の起源説の一つ。
飛鳥時代に記録されている庭園の最古のものは612年に築かれた。
仏教が渡来した際に庭園技術も一緒に持ち込まれたと考えられる。
飛鳥時代の庭園は池の形が幾何学的で石積みの護岸が特徴。
奈良時代に様式が変わり、自然風景的なデザインが登場。
党員庭園は奈良時代の重要な庭園であり、2010年に国の特別名勝に指定。
奈良時代の庭園は直線的な石積みからゆるい勾配をつけ、小石を敷き詰めた形態へ変化。
党員庭園の空撮写真から、時代の庭園の変遷が理解できる。
奈良時代の庭園の特徴は、極致曲がりくねった池と浅い水際。
石を積む形態は奈良時代の後半に見られるようになった。
日本庭園の発展は欧米とは異なる独自の歴史と特色を持つ。
日本の庭園は中国の影響を受けながらも独自の形態を発展させてきた。
日本の庭園は時代を通じて大きく発展し、独自の美学と文化を形成。
Transcripts
皆さんこんにちは
都市と環境第4回です
これまで主に
欧米の
庭園の発達から公園の誕生そしてパーク
システムや
田園都市論といったことをお話してきまし
たが今回は日本ではいったいどのように
そういったものが発展してきたのか特に
日本の庭園の発展について話をしていき
たいと思います
それではその1
日本の庭園の起源についてです
まず最初に日本語の
庭園に関わる用語について整理をしておき
たいと思います
当然漢字ですのでその用語のルーツは中国
ということになります
で中国における最高の事象と言われるもの
設問開示というものが
五感の時代100年頃に成立したと言われ
ています
そこには
庭園に関わる用語としてまず円
庭園の円ですねについては
塾ある所以なりと書かれていてこの円と
いうのはいわゆる
果樹園であったりとか
菜園などの農園であったという風にされて
います
で次に
草冠の縁ですけれどもこちらについては
近所を養う由縁なりとされていて今で言え
ば動物園であったりとか動物
飼育施設のことを指していたとされてい
ます
一方で言うというふうに読むんですけれど
もこの
Uというものは
円に書きあるなりという風にされていて1
に曰く
禽獣には言うというというふうにも書かれ
ています
つまり
草冠の縁に
柿などの区画施設があったものであると
いう風にされています
でさらには
円融あるいは円塩というわけですけども
皇帝の庭園施設にはそのような用語が使わ
れたということになっています
現代の中国語ではエンディングという風に
提案を
言ったりするわけですね
一方で日本ではですね当然漢字は中国から
入ってきたわけですけれども後でも出てき
ますが
島この
山辺の島というものもあればいわゆる
私たちが普段使う島という言葉もあります
けどもこういったものがいわゆる庭園
園地を備えた施設として使われたと
でまた草冠の縁についてはこれは中国の
影響であるという風に考えられますけども
宮廷の庭園施設に限って使用されたとされ
ています
最初に日本庭園の起源です実は日本庭園の
期限始まりについては実はよくわかってい
ないことが多いんですねでまたそもそもの
日本の庭園自体が最初どういうものであっ
たのかということについて
固まった見解がないという風にされてい
ます
一つは
古墳時代前期から中期4世紀から5世紀に
作られたとされる
祭祀の遺跡なんですけれども上の腰遺跡と
いうものが三重県伊賀市にありますこちら
が日本の庭園の起源ではないかというのが
非常に有力な説とされています
一方で皆さん歴史で勉強したようにですね
古墳時代に分母として
造営された前方後円墳これは周囲を池で
囲われているわけですけれどもこういった
ものが日本の
庭園の源流に
位置するんじゃないかというような見方も
あります
でさらにはもっと時代はさかのぼりまして
日本人がそれまで持っていたような
採取空間ですね神聖な空間として神が降臨
する場として人々が
巨大な岩であったりとか
岩盤が露出しているようなものを祀ってき
たんですけれどもこういったもの岩倉と
いう風にいますでこういうような
古代からの
信仰の空間が危険ではないかという説も
あります
でこの最終空間という意味ではこれは一つ
の例ですけれども神倉神社というものこれ
は和歌山のですね熊野ですね熊野速玉大社
の摂社という風にされているんですけれど
も上にあるような
巨大な
岩ですねあるいは
岩盤が露出しているようなものを祀られて
いる物っていうのは日本各地に例があり
ます
それでは実際には庭園として記録がある
ものということになりますと飛鳥時代と
いうことになります飛鳥時代は
592年
約600年から710年の100年ぐらい
ということになります
日本書紀には612年に
百済の渡来人である
美智子の匠という方が
趣味線像や
栗橋というものをオハリダ飲み屋の宮殿の
難点に築造したというような記述があり
ますこれが記録の中に残っている
庭園の一番古いものということになります
で日本の当然ですけれども様々な
技術あるいは文化ですねで特に
仏教が渡る時にですね朝鮮半島を経由して
様々なものが持ち込まれたわけなんです
けれどもまあ庭園の技術についても同様で
あったであろうという風に考えられてい
ます
626年には
蘇我馬子が
池を穿ち
島を築き
島の音戸と呼ばれたというような記述も見
られますこれが後でも
移行の写真を見せようと思いますが
島の小遺跡ではないかという風にされて
おります
でまた
飛鳥橋
以降というものがあるんですけれどもこれ
は日本書紀の中で記載されている
白ニシキの味噌のと言われるものこれは7
世紀中頃から後半という風に言われている
んですけどもではないかと言われています
いずれにしても後で
移行の写真を紹介しますけれども飛鳥時代
の庭園は
池の形が幾何学的で
護岸は石積みそして石岡加工したような
石造物が
置かれるというような庭園の形態でこれは
当時の朝鮮半島白木が朝鮮半島を統一する
わけですけれども朝鮮半島に当時見られた
庭園の形態と非常に近いものであるという
風に言われます
こちらが
奈良文化財研究所のですね
白調査報告書からとっている飛鳥時代の
庭園の移行の写真なんですけれどもまず
最初に
左下にあるものですけども島の書遺跡の
ものですねこれが池なわけですけれども
台形のような形をしていますがいずれにし
てもですね
護岸が石積みでですね直線的な形状を持っ
ていたと
でもう一つこちらは飛鳥橋以降ですけれど
も
少々写真が分かりにくいんですがいずれに
してもですねこれこれも池なんですけれど
も石積みの護岸と非常に直線的な形状と
最後は石上遺跡と言われるものでこちらは
飛鳥こちらも飛鳥にあるものなんですけど
も左側にあるものが
趣味山石と言われるようなもので
右側はですね赤人像ということなんです
けれどもこういった石像を配置するという
のも当時よく見られた形態ということです
それが
奈良時代になると様式が変わってきます
ただ当然ですが
奈良時代710年から794年ということ
なんですけども当時の中国特に唐の影響を
受けてきたというふうに言われるんですが
徐々にですね日本独自の形態衣装が見
られるようになってきたということです
奈良時代はですね直線的で石積みの互換と
いうことだったんですけれどもそういった
ものがなくなり
ゆるい勾配をつけ小石を敷き詰めると言わ
れるような形態が出てきますその要所に
自然石の形跡や石組みを排した
極致
曲がりくねったような池ですねが見られる
ようになります
例としてはですねあとでも紹介をします
けども平状況作業
あるいは状況と運転どちらも復元をされて
いるわけですけども近年ですね近年といっ
ても20世紀後半からということですけど
も非常に集中的に発掘が進みですね復元を
されるようになってきました
ですので飛鳥から
奈良時代の変化というものは人工的なもの
から自然風景的にまあデザインが
転換してったという風に言われています
党員はですね特によく整備をされたもの
ですし
平城京のですねまあ
朱雀門であったりとか修学旅行とかで行っ
たりすることが多いんではないかなと思う
んですけれども平城京の中心部に近い
ところに復元をされていますのでもしかし
たら言ったことがあるんじゃないかなと
いうふうに思います
いずれにしても非常に
重要な
庭園であったであろうというふうにされて
いるんですけれどもこれが復元されてで
2010年にですね国の特別名勝に指定を
されています
私たちがその奈良時代の
庭園の様子を知ることができる数少ない
例ということができるかと思います
こちらが発掘されていた時の
党員庭園の空撮のものです1976年の
報告書に載っているというものです当然
ですが
奈良時代の長い長いと言っても100年
以内ですけれども間に
携帯もずいぶん大きく変わってきたという
風に言われています
かつてのですね
池の形もですね後半に向けて変わってきた
ということで特に大改修がですね
前期から後期にかけてなされたというふう
に言われていますでまた
池のほとりに建物が
置かれていたわけですけどもそういった
建物も何度も立て直されているということ
だそうです
で実際にこれあの
党員定員に行きますとその中の
展示があるわけですけどもそこの展示の
から取ったものですけれども変遷ですね
左側の下前半の池からですね後半の意見が
より複雑な形態になってでその中庭の中に
ある建築物もですね変わってる様子がよく
わかるかと思います
で実際に今復元された
庭園に入ることができてですねその様子を
私たち見ることができるんですけども現在
の
庭園の平面図はこういったような形態と
なっていますで実際訪れる時はですねここ
で言うと西建物と書いてあるところ建物を
通り抜けて
庭園内に入るようなことになります
実際の現地の様子ですねこれが
巣浜と言われるものであと極致という風に
言いますけども語幹が曲線上になっていて
で小石を敷き詰めた
浅い
水際からですね実際に池の中自体も非常に
浅いような形態ですねになっているという
のが奈良時代の
庭園の
特徴であったと
ですね
でまた先ほどの写真から一番奥側反対側に
なるわけですけれどもこういった月山の
形態も当時見られたとこのような形態は
この後その2の方でお話をしてきます
けれども日本庭園あるいは大元は中国の
庭園の形態としてよく出てくる石を積む
形態ですけれどもそれがですねもう奈良
時代の特に後半にはですね見られていたと
いうものになります
はい第一部は以上です
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