岡田斗司夫ゼミ#243(2018.8)ハウルの動く城、宮崎がこっそり仕込んだマゾ視点~ 幻の細田版コンテと『消されたハウル』のすべて
Summary
TLDR岡田斗司夫在视频中讨论了《哈尔的移动城堡》的深层含义和创作背景,提到了宫崎骏对该作品的特殊情感以及电影中的多重结构。他分析了电影中的主要角色和象征意义,探讨了宫崎骏如何通过角色展现对战争、爱情和魔法的看法。此外,岡田还提到了即将进行的迪士尼家族博物馆之旅,并邀请观众参与后续的有偿直播内容。
Takeaways
- 📚 岡田斗司夫介绍了多部与《哈尔的移动城堡》相关的参考书籍,包括《20世纪》和《過去カラ来タ未来》,为理解作品提供了丰富的背景资料。
- 💇♂️ 岡田斗司夫提到自己剪了短发后,被戏称为“拳击协会理事”,形象上有了较大的改变。
- 🎨 他分析了《哈尔的移动城堡》的动画制作过程,包括细田守原本可能导演的版本和宫崎骏最终完成的版本之间的差异。
- 🌐 讨论了《哈尔的移动城堡》在欧洲的接受度不佳,原因是观众期待看到关于现代日本的故事,而不是欧洲背景的奇幻故事。
- 👵 冈田斗司夫推测,如果细田守导演的版本得以完成,可能会得到不同的评价和影响。
- 📖 他强调了《哈尔的移动城堡》原著和动画电影在细节上的差异,特别是哈尔角色的内心描写。
- 🎬 岡田斗司夫分析了电影中的二重结构,即表面上是一个面向女性的浪漫故事,而在更深层次上探讨了中年男性的现实问题。
- 🤔 他指出电影的复杂性,由于大部分情节仅从女主角索菲的视角展现,导致一些观众可能难以完全理解故事的全部内容。
- 🎭 岡田斗司夫提到了电影中的魔法元素和角色,包括哈尔、荒野女巫、稻草人等,每个角色都有其独特的魔法和弱点。
- 🏰 关于《哈尔的移动城堡》的结局,岡田斗司夫认为它展示了一个不受时间影响的乌托邦式幸福世界,其中索菲成为了一位魔女,与哈尔一同生活在天空之城。
Q & A
岡田斗司夫在视频中提到了哪些参考資料来分析《哈尔的移动城堡》?
-岡田斗司夫提到了阿尔贝·罗比达的《20世纪》,《过去卡拉来塔未来》以及文藝春秋的《吉卜力的教科书》系列等参考資料。
为什么岡田斗司夫认为《哈尔的移动城堡》是吉卜力工作室首次“败战处理”的电影?
-《哈尔的移动城堡》在欧洲的接受度不如《幽灵公主》和《千与千寻》,被认为是吉卜力工作室首次在票房上遭遇挫折的电影。
細田守原本计划导演的《哈尔的移动城堡》与宫崎骏的版本有哪些不同?
-細田守版的《哈尔的移动城堡》设定在现代,其中索菲被描述为一个在工作时戴着眼镜、对生活感到困惑的“眼镜女孩”。
宮崎駿在创作《哈尔的移动城堡》时,对于欧洲舞台的设定有哪些犹豫和考量?
-宮崎駿在创作时对于如何表现19世纪末到20世纪初的欧洲女性走路的方式感到困惑,最终决定让索菲以现代日本女性的方式行走。
岡田斗司夫提到了哪些与《哈尔的移动城堡》相关的其他作品或作者?
-岡田斗司夫提到了艾萨克·阿西莫夫和石森章太郎,以及他们与《过去卡拉来塔未来》的关联。
《哈尔的移动城堡》的动画版与原著小说有哪些显著的不同之处?
-动画版相较于原著小说,哈尔的内在描写更为细腻,展现了他可怜的一面。
为什么岡田斗司夫认为《哈尔的移动城堡》也是一部面向成年男性的作品?
-岡田斗司夫认为,除了表面的浪漫爱情故事外,《哈尔的移动城堡》还深入探讨了中年男性的现实问题,展现了他们的梦想和浪漫被否定的一面。
岡田斗司夫如何解释《哈尔的移动城堡》中的魔法元素和魔法师的角色?
-岡田斗司夫详细解释了电影中的各个魔法师,包括哈尔、荒地的魔女、卡西法等,以及他们各自的魔法能力和弱点。
宮崎駿在《哈尔的移动城堡》中是如何使用二重结构来平衡孩子和成人的观影体验的?
-宮崎駿在电影中融入了让孩子感到快乐和希望的元素,同时也为成人观众提供了一些稍微苦涩、引发共鸣的部分,使电影对不同年龄层的观众都有吸引力。
岡田斗司夫提到了哪些关于《哈尔的移动城堡》的误解或常见批评?
-一些观众认为《哈尔的移动城堡》的故事发展显得随意或不合逻辑,但岡田斗司夫指出,这部电影其实在逻辑上非常严密,没有随意的发展。
Outlines
🌟 岡田斗司夫讨论《哈尔的移动城堡》
岡田斗司夫在视频中首先提到了《哈尔的移动城堡》的特集,他提到自己刚剪了头发,感觉有点像黑帮成员。他决定忍耐并继续进行节目。他提到了关于《哈尔的移动城堡》的几本参考书籍,包括阿尔贝·罗比达的《20世纪》和《过去卡拉来塔未来》,以及《吉卜力的教科书》系列。他还提到了对《辉夜姬物语》的看法,以及对《哈尔的移动城堡》的期待。他计划在节目中详细讨论《哈尔的移动城堡》,包括细田守原本的构想和宫崎骏的最终版本。
🎬 细田守版《哈尔的移动城堡》的构想
岡田斗司夫探讨了细田守原本构想的《哈尔的移动城堡》,其中舞台设定在现代,索菲被描绘为一个戴眼镜的女孩,有着对自己生活方式的困惑。细田守的版本最终没有实现,但岡田斗司夫尝试通过现有的剧本和资料来推测其可能的内容。他还提到了《哈尔的移动城堡》在欧洲的接受度不如预期,宫崎骏对此感到遗憾,并在细田守的剧本中看到了现代世界观的体现。
📚 宮崎骏的《哈尔的移动城堡》分析
岡田斗司夫分析了宮崎骏完成版的《哈尔的移动城堡》,他认为哈尔这个角色是宮崎骏的化身,展现了野性与脆弱并存的性格。他还提到了萨利曼老师和索菲的角色,认为他们分别代表了高畑勋和宮崎骏的妻子。他提出《哈尔的移动城堡》是一部具有双重结构的电影,既有儿童喜欢的欢乐结局,也有成人能感受到的辛酸元素。
🎥 宮崎骏作品的双重结构与主题
岡田斗司夫讨论了宮崎骏作品中的双重结构,指出从《千与千寻》开始,宮崎骏的作品开始采用这种结构,以适应不同年龄观众的需求。他提到《哈尔的移动城堡》在表面上是一部女性向的浪漫电影,但在更深层次上探讨了中年男性的现实问题。他还提到了宮崎骏对于电影逻辑性的坚持,以及《哈尔的移动城堡》在结构上的严密性。
🎭 《哈尔的移动城堡》的魔法使与剧情
岡田斗司夫详细介绍了《哈尔的移动城堡》中出现的魔法使角色,包括哈尔、荒地的魔女、卡西法等,并分析了他们的特点和弱点。他还探讨了电影中的魔法元素和宮崎骏如何通过这些元素来构建故事。此外,他提到了电影中的一些细节,如卡西法的魔法解除和哈尔的魔法背景。
🌌 魔法与科学的对抗:《哈尔的移动城堡》的深层主题
岡田斗司夫深入分析了《哈尔的移动城堡》中的魔法与科学对抗的主题,指出电影中的国家之间的冲突反映了现实世界中的科技与魔法的对立。他提到了电影中的一些细节,如哈尔的国家使用科学力量对抗邻国的魔法力量,以及萨利曼先生的角色和其对哈尔的影响。他还探讨了电影中的一些象征性元素,如魔法使的弱点和他们的命运。
📖 宮崎骏的创作哲学与《哈尔的移动城堡》
岡田斗司夫讨论了宮崎骏的创作哲学,特别是在《哈尔的移动城堡》中的体现。他提到了宮崎骏对于电影中逻辑性和连贯性的重视,以及如何通过角色和情节来传达深层次的主题。他还提到了宮崎骏对于电影中女性角色的刻画,以及这些角色如何反映宮崎骏对于女性的看法。
🌐 《哈尔的移动城堡》与历史隐喻
岡田斗司夫将《哈尔的移动城堡》与历史事件进行了比较,特别是第一次世界大战的背景。他分析了电影中的战争场景和国家之间的冲突,以及这些元素如何与历史事件相呼应。他还提到了电影中的一些象征性元素,如飞行机器和国旗,以及它们在故事中的意义。
🏰 结局的象征与《哈尔的移动城堡》的深层含义
岡田斗司夫探讨了《哈尔的移动城堡》的结局和其中的象征意义,包括哈尔和索菲在天空中的生活以及它所代表的自由和逃避现实的主题。他分析了电影中的一些细节,如苹果树的象征和索菲作为魔女的身份。他还讨论了宮崎骏如何通过结局来传达关于和平、爱情和逃避现实的理念。
📚 岡田斗司夫的节目预告与总结
岡田斗司夫在视频的最后部分提供了他节目的预告和总结。他提到了即将讨论的主题,包括对《龙猫》的分析和对其他动画作品的探讨。他还提到了自己即将访问的迪士尼家庭博物馆,并预告了一些即将发布的相关节目。最后,他邀请观众参与他的频道,并提供了如何订阅和获取更多信息的指导。
Mindmap
Keywords
💡ハウルの動く城
💡宮崎駿
💡荒れ地の魔女
💡魔法
💡戦争
💡ソフィー
💡ジブリ
💡愛
💡魔法使い
💡プロット
Highlights
岡田斗司夫在8月12日的节目中讨论了《哈尔的移动城堡》特集,纪念前一天播出的该动画。
提到了宫崎骏曾想将阿尔贝·罗比达的《二十世纪》一书电影化。
《哈尔的移动城堡》与《拉普达》世界观相关的推荐参考书籍。
《吉卜力的教科书》系列对解读吉卜力作品非常有帮助。
鈴木敏夫在《辉夜姬物语》号中详细描述了他不想再与高畑勋合作的原因。
《哈尔的移动城堡》的原作与动画版在哈尔角色的描写上有所不同。
《哈尔的移动城堡》的动画版相比原作在细节上更加丰富。
《哈尔的移动城堡》的资料集因德间书店的出版而具有较高的细致度。
《哈尔的移动城堡 原画集全集》展示了作品的趣味性,对理解作品非常重要。
細田守原本计划导演《哈尔的移动城堡》,但后来项目被取消。
細田守版的《哈尔的移动城堡》与宫崎骏版在舞台设定上有所不同,細田守版设定在现代。
《哈尔的移动城堡》在欧洲的接受度与《幽灵公主》和《千与千寻》相比较差。
宫崎骏对于《哈尔的移动城堡》的舞台选择有犹豫,最终选择了欧洲背景。
《哈尔的移动城堡》中,主角索菲的行动和心理变化是故事叙述的主要视角。
《哈尔的移动城堡》的结构设计非常严密,没有随意的情节发展。
《哈尔的移动城堡》中,哈尔的角色可能部分代表了宫崎骏自己的性格特点。
《哈尔的移动城堡》的双重结构使得作品对不同观众有不同的吸引力。
《哈尔的移动城堡》在吉卜力工作室的作品中是一个独特的存在,因为它是首次尝试以单一角色视角来叙述故事。
《哈尔的移动城堡》的复杂性导致它容易被误解,但同时也是一部非常有趣的作品。
《哈尔的移动城堡》中,索菲最终成为了魔女,这一点在电影的最后通过她佩戴的黑色丝带得到象征。
《哈尔的移动城堡》的故事和剧情在后半部分变得更加丰富和深入。
《哈尔的移动城堡》的结局暗示了即使在战争结束后,和平也是暂时的,未来可能还会有新的战争。
《哈尔的移动城堡》的复杂剧情和深层次的主题需要观众从不同角度进行解读。
《哈尔的移动城堡》中,哈尔和索菲的故事是在一个更大的历史背景下展开的,涉及到战争和和平的深层次主题。
《哈尔的移动城堡》的结局展示了一个乌托邦式的幸福世界,索菲通过魔法创造了一个永恒的幸福时刻。
《哈尔的移动城堡》中,索菲的选择反映了宫崎骏对于女性角色的独立和力量的肯定。
Transcripts
こんばんは、岡田斗司夫ゼミです。8月12日の今日は、一昨日にオンエアされた『ハウルの動く城』の特集をやるんですけど。
「髪切った?」(コメント)ああ、髪切りました。でも、髪を切ったら、今話題の“ボクシング協会の理事”みたいな感じになってしまって「なんか俺、ヤクザみたいだな…。短い髪は似合わなかったな…」って。
ハウルのように「もう、こんな髪じゃ人前に出れない!」なんて思ったんですけど、我慢してやってみようと思います。
今夜は一昨日の金曜ロードショーで『ハウルの動く城』が放送されたことを記念して、これをやる日が来るとは思わなかったんですけど、やってみようと思います。
一応、参考資料がいくつかあります。一番有名なのが、このアルベール・ロビダの『20世紀』という本ですね。
これ、宮崎さんが昔から「このアルベール・ロビダの『20世紀』を映画化したかった」と言っていたような本なんです。
19世紀末のパリにいたイラストレイター兼小説家が予想した、面白おかしい20世紀の世界が描かれた本ですね。
他にも、これと同じような時期に書かれたもうちょっと軽い本として、『過去カラ来タ未来』という本もあります。
帯には「アイザック・アシモフ監修、石ノ森章太郎序文」と書いてありますね。
『ハウルの動く城』とか、あとは『ラピュタ』の世界観に興味がある人は、このアルベール・ロビダの『20世紀』と、『過去カラ来タ未来』あたりを参考資料にすると、良いと思います。
その他には、もちろん、ジブリ作品を読み解く時には基本的に役に立つ、文藝春秋の『ジブリの教科書』シリーズですね。
つい2,3日前に、この『ジブリの教科書』シリーズの『かぐや姫の物語』の号が出たんですよ。
その中で鈴木敏夫さんが「僕が高畑さんとはもう仕事をしたくないと思った理由」っていうのを延々と書いてたんですけど、それがもう、一番面白いんですよね。
『かぐや姫の物語』という作品を読み解く上で参考になるかどうかはともかくとして、「人間、死んだらここまで悪口を言われるんだ」というのに溢れていて、ちょっとすごかったです。
なので、やっぱりこの『ジブリの教科書』シリーズは逃せないな、と。あとは、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの書いた『ハウルの動く城』の原作本ですね。
これも、アニメ版よりもハウルの情けない内面というのが細かく書いてあって、その辺も注目です。あとは、アニメージュの『別冊ロマンアルバム』です。
ジブリ作品のロマンアルバムというのは、だいたいどれも面白いんですけど。
ただ、この『ハウルの動く城』に関しては、絵がいっぱい載っている代わりに、インタビューとかが少なかったので、僕としてはちょっと食い足りなかったです。しかし、やっぱりこれも外せません。
なぜかというと、ジブリの元々の親会社が徳間書店だったということもあって、徳間から出るこういう資料集は、かなり細かくチェックが入るからなんです。
つまり、ジブリが自社で出版しているものを“第1次資料”とするならば、徳間が出しているのは“1.5次資料”みたいな扱いになるんですよね。今日、僕が話の中で使う用語とかも、基本的には、徳間のロマンアルバムに準じてると思ってください。
あとは最後に…。まあ、これはもう、みんな買うしかないでしょう。『ハウルの動く城 絵コンテ全集』です。
この絵コンテ、見ると見ないとで、『ハウルの動く城』という作品の面白さも、わりと違ってくると思います。
やっぱり「あれ?これって宮崎作品としてはどうかな?」って思った作品って、コンテを見てみるのが一番いいと思うんですよね。なので、今日はこの絵コンテなどを中心にしながら、『ハウルの動く城』をゆっくりと語ってみようと思います。
一昨日に金曜ロードショーで『ハウルの動く城』がオンエアされたと言ったんですけど、その前には2週続けて“細田守祭り”ということで、細田監督の『時をかける少女』と『バケモノの子』が放送されてました。
もともと、『ハウルの動く城』というのは、細田守初監督作品として作られるはずだったんですよね。その“細田版ハウル”のコンテというのが、いくつか残っています。
ここには「Aパート」と書いてあるんですけど、実は、この細田版のハウルの絵コンテは、全体の3分の2くらいまで完成してたそうです。
ところが、そこまで進んでいた段階で…。ここが、よくわからないところなんですけど。細田さん本人が言うには「降ろされた」と言うし、宮崎駿が言うには「スタッフが勝手に解散しやがった」言う。
鈴木さんに至っては、言葉を濁すという、よくわからない中で、細田版ハウルの制作は終わってしまいます。
僕はやっぱり、この細田版のハウルというのがどんなものだったのか興味があったので、残っているコンテとかを引き伸ばしてみたんですけど。
細田版では、舞台が現代だったんですよね。現代の車がソフィーの店の前に停まっています。そして、ソフィーが“メガネっ娘”なんですね。
「仕事をしてる最中はメガネをかけていて、あれこれ自分の生き方に悩んでいる」みたいな描写があるんですよ。「これはこれで悪くない」というか、「案外、舞台を現代にした方が面白かったかもしれないな」って思うんですよね。
僕、今回の放送の予告として、メルマガとかに「『ハウルの動く城』はジブリ初の“敗戦処理”」って書いたんですけど。これ、どういうことかと言ったら、この作品って、ヨーロッパで受けが悪かったんですよ。
当時、フランスでは『千と千尋の神隠し』を中心とした大規模な美術展をやっていたんです。その美術展には人もいっぱい入って、この時に『ハウルの動く城』の宣伝を行い、その後に公開したんですけど。
ところが、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』での大評判に比べて、『ハウルの動く城』っていうのは、フランスを始めとするヨーロッパでは、やや受けが悪かった。まあ「やや」なんですけどね。
その理由は何かというと「なぜ日本の話をやってくれないんだ?ハヤオ・ミヤザキの作品は現代の日本というのが見れてすごく良いのに、なぜ、こんなヨーロッパのモノマネ世界を舞台にするんだ?」と思われたからなんですね。
こんなふうに言われた宮崎さんは、やっぱり悔しかったみたいなんですけど。細田版のコンテを見てみると、ちゃんと現代の世界観になっているんですよ。
なので、そこら辺も含めて「細田さんが監督をやっていたら、評価も影響も今とは違ったのかな?」と思います。宮崎さん自身も、ヨーロッパを舞台にすることには、すごく迷いがあったそうです。
例えば、一番最初に主人公のソフィーという女の子が街に出かけるシーンがあるんですけど、彼女が街を歩く時、どう動かすべきかということに悩んだそうなんですよ。
実は、19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの女の人というのは、表を歩く時に絶対に肩も腕も動かさず、下半身だけ動かしてスススっと歩くんですよね。
でも、そうやって動かすと、主人公のソフィーが、なんだか必要以上にツンと構えた印象になってしまう。で、悩んだ末に、やっぱりソフィーは現代日本人の女の人みたいに、普通に両手を動かして歩くようにしたんですけど。
そしたら、やっぱり、そこら辺について「宮崎駿は19世紀ヨーロッパをわかってない」とか、いろいろ言われることになって、宮崎さんも悔しかったそうなんですけど。
この細田版のハウル、せめてコンテ集だけでも表に出して欲しいんですけど。ジブリとしては、徹底的に封印するつもりらしくて、出てこないんですよね。
だから、次のチャンスとしては「宮崎駿が死んだ時に何が出てくるか?」なんですよ。もちろん、“最後のチャンス”は「鈴木敏夫が死んだ時に何が出てくるか?」なんですけど。
いかん、いかん、こんな余計な話をしていると、時間がなくなってしまう。宮崎版というか完成版の『ハウルの動く城』という作品について、僕の見方はどういうものかと言うと。
これ、この間のテレビ放送を見てて思ったんですけど、基本的にハウルというキャラクターは宮崎駿の分身であって、“スギちゃん”みたいなものなんですよ。
つまり、「俺ってワイルドだぜ~!」って、常に強がるんだけど、同時に弱い一面を見せることもある。それに対して、サリマン先生という怖い魔法学校の先生は「人を道具のように扱って壊す」という高畑勲。
で、ソフィーは宮崎駿の奥さんで、「どんなに仕事が忙しくても、宮崎駿が徹夜せずに家に帰るのは、あの奥さんが家にいるからだ」という。なんか、こんな感じの配置になっているんじゃないかなと思うんですよ。
まあ、この辺は、読み解いていく中で少し見方が変わって来たんですけど。この辺は、後半で話しましょう。
「愛妻家なのか?」(コメント)ええと、宮崎駿が愛妻家か否かについては、今日の『ハウルの動く城』の話を最後まで聞いて貰ったらわかる通り、「普通の意味での愛妻家ではないが、特殊な意味では愛妻家だ」ということが明らかなんですけどね。
まず一番最初に話しておかなきゃいけないのは「『ハウルの動く城』というのは、ジブリ初と言ってもいいくらい“賛否両論の映画”だった」ということなんです。
つまり、これを見て感動する人はメチャクチャ感動するんだけど、文句を言う人はいっぱい文句を言うんですよ。ちなみに、宮崎さん自身は、この『ハウル』を作った頃からこんな事を言っていました。
子供には楽しくて未来に希望の持てるようなアニメを見せなきゃいけない。そこだけは譲れない。アニメは子供のものだ。
でも、それを一緒に見に来る大人にとっては「ほろ苦いんだけど、でも、人生ってこういうものだよな」と思えるような、ちょっとした癒しになる作品を作りたい、って。
こういった、1つの映画の中に、子供にとっては「ハッピーエンドのすごく楽しい物語だった」と思えるような要素と、
大人にとって「ああ、ちょっと切ないな」って思える要素の2つを取り入れる二重構造というのは、宮崎作品としては後半に入って初めて使われるようになったものなんです。
『ナウシカ』から『もののけ姫』までは二重構造ではなく“対立構造”なんですよ。それまでは、宮崎駿も「2つのそれぞれ相反する立場の人間が、お互いの信念をぶつけ合う」という、
高畑勲が大好きな共産革命の思想のような、「テーゼ → アンチテーゼ → ジンテーゼ」という構造で作っていたんです。
例えば、『もののけ姫』では、「“もののけ”たちの自然の世界と、鉄を作って自然を破壊する人間たちの世界の共存というのは、本来はありえないんだ」という対立構造があります。
しかし、『千と千尋』や、『ハウル』、『ポニョ』の辺りから二重構造に変わったんですよ。なぜかというと、やっぱり対立構造で物語を作ろうとすると、どうやっても“楽しくて明るいハッピーエンド”をラストに持って来にくくなってしまうからですね。
だから、宮崎さんは、テクニックとしてはなかなか難しい二重構造で作品を作るようになりました。例えば、『千と千尋』では「最後、お父さんとお母さんが帰ってきてよかったね」というハッピーエンドを見せながら、
「でも、なぜ千尋は“死の世界”に行き、そこから帰って来たのか?」という含みも持たせて、二重構造としての物語を描いています。
ちなみに、今のところ最後の作品である『風立ちぬ』では、宮崎駿は対立も二重構造もかなぐり捨てて、言いたいことをどんどん繋げて物語を描くという、“狂乱期”に入っていて、僕はそれをすごく面白く思ったんですけど。
まあ、『ハウル』はそういった二重構造期の作品です。二重構造になっていますから、表面の層としては、徹底して女性向けのロマンス映画として作っています。
いわゆる恋愛、それも、女の人向けの恋愛モノの“お約束”の全てを満たした上で、ラストは「ソフィーは夢のマイホームを手に入れる」という、ものすごいハッピーエンドになっているわけですね。
まあ、このハッピーエンドへの持っていき方というのが、見る人にとっては「なんでそんな都合のいい展開になるの?」って、引っかかっちゃうこともあるんですけど。
でも、これは表面層。一見するとお約束満載の乙女チックなロマンス話に見えるんですけど、もう一段深い層には「中年から老境に差し掛かる男の現実」という話を描いているんです。
男の夢とか男のロマンというのを全て否定しながら語る、宮崎駿なりの“家庭論”というのが入っていて、やっぱりこれも面白いんですよ。ロマンスという層について「表面」という言い方は悪かったかもしれませんね。
「右と左」と言った方が正しいのかもわからない。このロマンスも、割とわかりにくいんですよ。だから、それが伝わる人、ロマンチックな恋愛モノをよく見ている人にとっては「あるある! すごい黄金パターン! 鉄板だ!」って喜べるんですけど。
見慣れない人にとっては「え?ハウルやソフィーの行動原理、さっぱりわかんない」となってしまって、恋愛映画としても楽しめない。だからといって、もう1つのほろ苦い感じはもっとわかりにくい。
なので、これらを読みきれないと「『ハウルの動く城』って、つまらないよな」って思っちゃうんですよね。だけど、この両方が見えると、すごく面白い作品なんですよ。
一方にあるほろ苦い部分はもちろん、宮崎駿が、なぜか彼の中にものすごく沢山ある“乙女心”を全開にして作ったロマンチックな話だけでも、十分面白いんですよ。
なので、今回は、この両方を出来るだけわかりやすく解説してみようと思います。でないと、俺ら男には、宮崎さんほどの乙女心がないから、よくわからないんですよね。
男性の中には「やっぱりストーリーがイマイチ」とか、「ラストの展開、特にカカシの正体が隣国の王子だったという辺りの展開が、ご都合主義っぽく見えて、乗り切れない」と言う人も多いんです。
だけど、実はこの『ハウルの動く城』という作品は、構造自体はレゴのようにものすごく綿密に作ってあって、ご都合主義な部分は1つもなかったりするんです。
ちょっと信じられないと思いますけど、ご都合主義とか無茶な展開は、この物語の中に1つもないんですよね。それくらい計算されて構築してあるんです。
では、なぜそれが分かりにくいのか?それは「この作品では、ほぼ全編に渡ってソフィーという主役の女の子の視点のみで語っているから」なんです。
1人の登場人物の視点だけで物語を語るのがどれくらい難しいのかということを説明するために、ここでは「もし『カリオストロの城』をクラリスのみの視点だけで語るとどうなるのか?」というのを、ちょっとまとめてみました。
あのストーリー展開がわかりやすい『カリオストロの城』が、視点を固定するだけでどう変わってしまうのか、ですね。
もし、あの映画の主役がクラリスで、彼女の視点だけで語るとするなら、まず最初は「修道院から本国に戻る」というシーンから始まります。そしたら、エロいオヤジとの結婚を仕組まれていて、それが嫌で車で逃げだす。
だけど、途中で事故を起こして連れ去られ、塔に閉じ込められちゃった。その次には“泥棒さん”が助けに来てくれるんだけど、落とし穴に落ちちゃった。そして、泣いてたら自分の家庭教師の不二子が窓をぶち壊す。
その後で、泥棒さんがまた助けに来てくれたんだけど、罠にかかって殺されかけたので、仕方なくなんかエロいオヤジに降伏することにした。それから先は、薬を飲まされていてよく覚えてない。
ハッと気がついたら、教会でウェディングドレスを着せられて、目の前で泥棒さんが殺された。「いやー!」って言ってると、泥棒さんは実は生きていて、一緒に時計台に逃げたら、また捕まっちゃう。
で、また泥棒さんが殺されかけたので、湖へ飛び込んで助ける。夜が明けるとインターポールが来て、泥棒さんは「うわぁー怖いおじさんが来た」と逃げちゃう。
最後に、「好きです。連れてって!」と言ったんだけど、ダメ。「ああ、私は恋をしたんだな」で、終わる。あの面白い『カリオストロの城』が、クラリスの視点に固定するだけで、ここまでメチャクチャになるんですよ。
これくらい、1人の人間の主観だけで物語をまとめるのは難しいんです。映画を1人のキャラクターの主観だけでまとめる構造というのは、かなりわかりやすい話にしないと難しいんですけど。
『ハウルの動く城』って、これなんですよ。基本的にはソフィーの主観だけで描かれている。だから、その端々から漏れ出てくる情報を観客側が積極的に読まないと、なかなか面白くならないんですね。
例えば、これは失敗例…と言ったら申し訳ないんだけど、『エヴァQ』ってありますよね?新劇場版の今の所の最新作である『エヴァQ』が、なんであんなにわらかりづらいのかというと、
実はあれは、ほとんど全て、碇シンジの視点だけで描いてるからなんです。たぶん、視点をいろいろ動かして自由に描いていたら、もっとわかりやすく面白くなっていたはずなんですよ。
たった1人の視点だけで物語を語ると、主観的に深く入っていける文学っぽい作品になるんですけど。ところが、その代わり、一旦「ここ、変だな?」とか、「わかりづらいな」と思ってしまうと、物語に乗り切れなくなってしまう。
そういう難しさ、1人語りの映画にはあります。こういった元々のわかりにくさに加えて、キムタクというアイドルを声優に起用したということで、なんか無用の反感を持った人もわりと多いと思います。
そういう意味で、『ハウル』というのは、ジブリ初の敗戦処理映画になったんですよね。もちろん、敗戦処理と言っても、歴代2位のヒットなんですよ。
『千と千尋』が、もう圧倒的で、ぶっちぎりに稼いだんですけど、その次にヒットしたのが『ハウルの動く城』。だから、この作品を指して「敗戦処理」だなんて言ったと鈴木さんが聞いたら、ものすごく怒ると思うんですけど。
ただ、『もののけ姫』から続いて『千と千尋』もヒットしたように、それまでのジブリ映画って、基本的にずっと上り調子だったんですよ。
「興行成績がまた良くなった!」「また良くなった!」というふうに、倍々ゲームみたいに売上も伸びていたんです。だけど、この『ハウル』という作品で、初めて興行成績を落としたんです。
つまり、鈴木敏夫にとっては“認めたくない敗戦”なんですね。これについては、宮崎さん自身も、『ポニョ』で引退を宣言した時に「自分の作品で一番好きものは何ですか?」と聞かれて、
間髪入れずに「好きという意味とは違うんですけど、いまだにトゲのようにずっと刺さっている作品は『ハウルの動く城』です」と答えるくらい、ひっかかり続けている作品です。
あとは、なぜ誤解されやすいのかというと、「お話がご都合主義だ」とか「論理的でない」と言われると、宮崎さんは意地になって、こんなふうに答えちゃうからなんですよ。
「論理的でないとか、ご都合主義だと言う人もいるけど、映画なんて全部ご都合主義だ!論理で繋がっている必要なんてない!そんなことを言うヤツは映画なんて見なくていいんだ!」って。
だけど、これは宮崎駿が意地になった時に見せる、特有の“頑固ジジイの世迷言”で、この『ハウル』という映画は、本当に限界まで論理的に作ってあるんですよ。
僕も、改めて検証して、すごくビックリしたんですけど、隅から隅まで論理的なんですね。つまり、そんなふうに言われた宮崎駿が本当に言いたかったのは、
「この映画の持っている論理性を見抜けないくせに、破綻してるとか論理的でないと言えてしまうようなヤツは、最初から映画なんか見るな!」ということなんですよね。
こんなふうに、むくれて拗ねているだけなので、そこら辺の宮崎さんの発言はあんまり本気にしない方がいいと思います。
今回、『ハウルの動く城』を取り上げようと思ったのは「実は、この映画は、かなりオッサン向けの作品だ」ということが見過ごされがちだからなんです。
僕はこれを、『カリオストロの城』の最後で「私も連れてってください!泥棒は出来ないけど、きっと覚えます!」と言ったクラリスを本当に連れて行ったらどうなったのかを見せる映画だと思っているんです。
そして、これは同時に、もう一つの『まどか☆マギカ』なんじゃないか、とも思います。『まどか☆マギカ』のTV版のラストの展開を別の方向から描くと、『ハウルの動く城』になるんです。
今回は、そこら辺「ああ、宮崎さんって、すごいことをやったんだな」と改めて理解できるように紹介したいと思います。もう20分くらい過ぎちゃいましたけど、この辺りの解説は、出来るだけ前半の無料部分で語ろうと思います。
ストーリー順に解説すると、どうしても有料の後半の方で種明かしをすることになるんですけど。この後すぐに、今日の講義の全体の見取り図を出しますから、
あとはもう、みなさんはその見取り図をスクリーンショットかなんかして、後で見てくれれば、わりと後半の展開が読めるようにまとめました。
もちろん、後半では、有料版を契約してくれている人のために、この見取り図からは想像も出来ないほど、深く深く進んでいこうと思いますけど。基本的に、前半で全ての見取り図を出そうと思います。
では、全体の見取り図として、『ハウルの動く城』に登場する魔法使いの一覧とプロットを紹介します。ここからエンジンを掛けて行きますから、頑張って付いて来てください。
『ハウルの動く城』に登場する魔法使いを冒頭から順番に並べた一覧を作ってみました。
まずはハウル。彼の本体は“鳥”です。例えば、ソフィーがハウルの城を最初に訪れた時、なんですんなり中に入れたのかというと、城に着く前にカカシがくれた“握り手に鳥の彫刻がついた杖”が通行証の代わりになっていたからなんですよ。
疲れたソフィーにカカシが渡したあの杖を、なぜ、わざわざアップで映したのか?だって、変でしょ?あのカカシがくれた杖によって、門番の役割をしていたカルシファーが騙されたからなんですね。
ということで、本体は鳥。それがハウルです。2番目に出てくる魔法使いは“荒れ地の魔女”です。「光に弱い」と書いているんですけど、これ、どういう意味かというと、これを見てください。
彼女が一番最初に登場するシーンが、上の2つです。最初から“輿”に乗って現れるんですよね。これを見て「太ってるから自分で歩かないんだ」と思っている人もいるんですけど、そうじゃないんですよ。
彼女は光を徹底的に嫌っているんですよね。だから、輿にも黒いカーテンを付けているんです。荒地の魔女について、みんななんとなく「太っててブサイクだ」って思っちゃうんですけど、
実は、一番最初に暗がりの中、ソフィーの店に来た時は、メッチャクチャ美人なんですよ。まあ、デカいはデカいんですけど、すごく綺麗な顔立ちとして描かれているんですよね。
ところが、中盤の王宮へ続く階段を登って行くシーンでは、急にブサイクになる。これ、「ああ、階段を登ったから、疲れて汗かいてブサイクになったんだ」って思っちゃうんですけど、違うんです。
宮崎アニメには法則性というのがあるんです。つまり、この魔女は光が弱点なんですね。なので、この光を遮るカーテンのついた輿から降りて、明るい光の中を歩くことを強要されると、
階段を上がって行く中で、どんどん魔力を失ってしまう。その結果、あっという間に老けてしまったんですよ。そして最後には、サリマンに騙されて連れ込まれた部屋で、周りから電球の光でガッと照らされて“影”がなくなっちゃったんです。
そして、この荒れ地の魔女というのは力を失ってしまった。そんなふうに、それぞれの魔法使いには弱点というのがあるんですけど。というわけで、2番目に出てきたのは、荒地の魔女という、光に弱い魔女でした。
3番目に出てくる魔法使いは“カカシのカブ”です。このカカシについて、「最後の最後で唐突に呪いが解けて王子様になった」というバカみたいな役だとついつい思っちゃうんですけど。これ、違うんですね。
例えば、洗濯物を干すシーンというのがあるんですけど。この時、カカシもソフィーが洗濯物を干すのを手伝っているんです。
「ああ、洗濯物が好きなんだな」というふうに、マルクルもソフィーも言うから、映画を見ている人はついついその言葉を信じちゃうんですけど。カカシは、その時、遥か山の彼方を、じーっと見つめているんです。
これ、何かというと「故郷に帰りたいな」と思っているに決まってるんですよ。高いところに立って、山脈の向こうにある隣の国を見ているんですね。
こいつは、そうやって人間に戻るチャンス、国に帰るチャンスというのをずっと探しているんです。では、そんな彼がなぜ魔法使いなのかというと、このシーンですね。
これ、ちょっとわかりにくいんですけど、最後にサリマン先生が、水晶器の中に映ったソフィーたちの様子を覗いているシーンです。
ここで、ソフィーたちが手を振っている中、やっと王子様に戻れたカカシは、棒に乗ったまま空を飛んで国に帰るんです。変ですよね?もう呪いは解けてるはずなのに。
じゃあ、なぜ棒に乗って空を飛んで帰るのかというと、「こいつが魔法使いだったから」に決まってるんですよ。でも、王子なのに魔法使いって変でしょう?
だって、ハウルたちがいる国では、王様は魔法を使えないからこそ、科学の力で戦おうとしているんですよ。だからこそ、サリマンが王立魔法学校というのを作って魔法使いを育成しているんです。
ということは、この王子の故郷である隣の国というのは、ハウルたちの国とは国体が違うんですよ。王子が魔法使いということは、隣の国ではもちろん王様も魔法使いのはず。つまり“魔法使いが建国した国”なんですね。
この描写から読み取れることは「ハウルたちの住む国の隣には“魔導帝国”というのがある。そして、それが軍事的に恐ろしいからこそ、科学の力を利用して戦おうとしている」ということなんです。
『進撃の巨人』でいう“マーレ”みたいなものですね。そうやって科学&魔法の力で、隣国の巨大な魔法力に対抗しようとしているわけです。ということは、「誰が彼をカカシに変えたのか?」というのも明らかですよね。
隣の国に対して攻撃を仕掛けたのは、もちろんハウルたちが住む国であり、そして、それはおそらくサリマン先生です。これについては、もうちょっと後で説明します。
4番目の魔法使いは“マルクル”。ハウルたちと一緒に暮らしている小さな男の子ですね。これに関しては、そんなに深いツッコみはありません。ただ、このマルクル、“魔法使いの弟子”なんですけど。
『ハウルの動く城』って、全般的に、ディズニーの『ファンタジア』に軽く喧嘩を売ってるところがあるんですよね。特に、幼い頃のハウルの近くに星が降ってくるあたりの描写というのは、まんま『ファンタジア』なんですよ。
『ファンタジア』の中に、水の精みたいなのが飛んでいくシーンがあるんですけど、それに対して「俺の方がもっとすごいぞ!」と言わんばかりに作っているんです。
『ハウル』の公開時期からして、宮崎駿が喧嘩を売った対象というのは2つあるんですよ。その1つ目は『ファンタジア』。そして、もう1つは『ハリー・ポッター』なんですよね。
『ファンタジア』という古典的な魔法アニメっていうのに対して、「違うだろ! こうだろ!」っていう正解を叩きつけるのと同時に、『ハリー・ポッター』に出てくる都合のいい魔法描写に対して、
「違うだろ! 魔法っていうのはこうだろ! 魔法戦闘というのはこうだろ!」という喧嘩の売り方が、なかなかカッコいいんですよね。
そんな中で出てくるマルケルというのも、「魔法使いの弟子っていうのは、こんな感じだ!」というような“遊び”として登場させているところがあります。
宮崎さんは、コンテ切っている時に「マルケルとカルシファーと犬を出した! もうこの3つで子供人気は掴んだ!」って言ったそうなんですけど。マルクルは、そういうマスコット的な役割が与えられています。
5番目は“三下の飛行怪物”ですね。これは、中盤に出てくる、ハウルと空中で戦うシルクハットを被った怪物みたいなヤツです。
こいつらを指して、ハウルは「三下の同業者が現れた。」というふうにカルシファーに言うと、「あいつら、もう人間に戻れないな」と言うんですけど。「同業者」ということは、おそらく、敵の魔法帝国の魔法使いなんでしょう。
そんな魔法使いたちが、もう人間に戻れないくらいの変身をさせられているという設定です。この三下は、シルクハットを被っているんですよね。
フランスとドイツの国境近くにある、50年とか30年ごとに国境が変わって、フランス領になったりドイツ領になったりする、コルマールとかストラスブール辺りの“アルザス地方”という地域があるんですけど。
たぶん、『ハウルの動く城』って、あの辺りを舞台にしてるんですね。だから、アニメの中では、ポスター類とかが全てドイツ語で書かれているんです。なので、ハウルの住んでいる国は、一応、ドイツ領なんでしょう。
それに対して、襲ってくる敵の魔法帝国の三下魔法使いは、シルクハットを被っている。つまり、おそらくはイギリスっぽい国なんじゃないかと、僕は考えています。
次は犬の“ヒン”です。なぜ、ヒンが魔法使いなのかというと、宮崎さんが一番最初に書いた企画書に「犬人間」って書いてあるからなんですね。
犬のヒンというのは、サリマン先生によって、罰を与えられたのかわからないけど、「お前は犬としてずっと私に使えて、スパイの役割をしなさい」と言われているんですよね。
だから、最後にヒンがサリマン先生の失敗をあざ笑うと、「この浮気者!」というふうに言うんです。
「この裏切り者!」ではなく、「この浮気者!」というふうにサリマン先生が言うってことは、サリマン先生が自分の使い魔にしているようなやつらは、基本的に、全員、一時は自分の恋人だったということですよね。
つまり、「自分の恋人として籠絡することによって、恋に落とすことによって、そいつらを使役していたんじゃないか?」というのが、あの映画の根底に流れている“情念”みたいなポイントです。
なぜ僕が、このヒンのことを“犬人間”と断言するのかというと。ソフィーがこのヒンを持ち上げて、階段を登るシーンがあるからです。
ここで持ち上げられたヒンは、ソフィーが予想していたより、ずっと重いんですよ。
なぜかというと「犬に変身させられているけど、体重は人間のままだから」です。だから、ソフィーは「なんであんたはこんなに重いのよ!」って言いながら一生懸命に持ち上げることになったんです。
あんなシーンをわざわざ入れたのは、この不自然な体重を見せるためなんですよね。「あんた重いわね」じゃなくて、「なんでこんなに重いのよ」と言うのは意外な重さがあるということですから。
では、なぜ、その不自然な体重を観客に知らせる必要があったのかというと、「人間を犬に変えて何十年も使役している」という、サリマン先生の残酷さを表現するためです。
犬のヒンというのは、そのために出てくるんですけど。でも、同時に二重構造の良いところとして、そんなふうに“女の怖さ”を表現しながらも、かわいい犬のキャラクターが出てきたら、子供は喜ぶんです。
ここら辺にも、「よし、俺、もう勝った!」という宮崎駿の計算が、ちゃんと働いています。次は、サリマン先生です。サリマン先生は言うまでもなく魔法使いです。
王国の魔法学校の校長みたいな立場でもありますけど、かなり怖い人です。『ラピュタ』でいうムスカみたいなポジションだと思っています。そういう人です。
そして、サリマン先生の近くにいる小姓達。つまり、子供の頃のハウルそっくりの姿をしている男の子達ですね。
自分の身の回りに仕える、執事代わりに使っている者たちを、全員ハウルの幼い頃と同じ姿にしているところに、かつてのサリマン先生とハウルの関係のエロさというか、ドロドロさというのを感じますね。
こういった部分を、もうちょっと見てあげた方がいいと思うんですよ。宮崎駿は、別に手を抜きたいから、あそこに出てくる小姓たちを同じ顔にしたんじゃないんですよ。
「ここには何かあるよ? 気がつくだろ? 女って怖いからな」というふうに描いてるわけですね。そして、最後に出てくる魔法使いはソフィーです。
僕、この『ハウルの動く城』について、「ソフィーは魔女だ」ということを言う人があまりにも少ないので、ビックリしてるんですけど。ソフィーが魔女だということを、宮崎駿は、ちゃんと絵で描いているんですよ。
これは、ラストシーンです。ソフィーは、最初に外出するシーンから、外に出るときには必ず麦わら帽子を被っているんですけど。
その麦わら帽子には“赤いリボン”が付いているんですね。赤いリボンと赤い肩掛けを、ずっと持っています。これは「お婆ちゃんの姿になっても、自分は女の子だ」という印として持ってるんですけど。
このラストシーンでだけ、帽子に付いているのが急に“黒いリボン”になってるんですよね。そして、この黒のリボンというのは、『魔女の宅急便』の頃から、完全に魔女のシンボルなんですよ。
つまり、宮崎さんとしては「ここで黒いリボンを見せたんだから、ソフィーは魔女だってことなんて、みなさんにも言わなくてもわかるでしょ?」という、メッセージを残してくれているということなんですね。
一応、これで物語の中に登場する魔法使いは全て紹介しました。ソフィーを入れて全部で9種類いると考えておいてください。
「知らんがな」(コメント)「わかりませんでした。」(コメント)そうなんですよ。その通りなんです。宮崎駿の作品は一筋縄ではいかないんです。
だから、言われるような“ご都合主義”なんか描かない。そういうところが、また面白いところなんです。もう30分を超えちゃったけど、このまま続けますね。
では、全体像を見せると言ったので、ストーリーとプロットの説明をします。まず、“ストーリー”と“プロット”の違いというのを、軽くしておこうと思います。
ストーリーとは「見せ場を順番に並べたもの」です。“絵コンテ”と同じですね。それに対してプロットというのは「全体の因果関係で並んでいるもの」です。
なので、物語世界の歴史順、時間順に並んでいるのがプロットで、そこに「これをどういう順番で見せるのか?」というのが含まれたものをストーリーだと思ってください。
例えば、『ドラゴンボール』でいえば、「ど田舎でおじいちゃんに育てられた男の子・孫悟空は、ブルマと出会って、ドラゴンボールを探すようになりました」というのがストーリーになります。
じゃあ、プロットというのは何かっていうと。「はるか昔、ナメック星の龍族の子供が親とはぐれて成長して、自分の中の良い部分が神、悪い部分がピッコロ大魔王になった。」
「その後、宇宙を支配するフリーザが惑星ベジータを征服。その惑星ベジータから、異星征服のための刺客として送り込まれたのが、まだ赤ん坊だったカカロット、後の孫悟空であった」というのが『ドラゴンボール』のプロットとなります。
プロットというのは、年代順、時間順に綺麗に並んでて、おまけに、前に起きた出来事が、必ず後に起きた出来事の原因になっているんです。そんなふうに、原因と結果の因果関係が綺麗に並んでいるのがプロットです。
そうじゃなくて、「どういうふうに見せるのか?」というのがストーリーだと思ってください。『ハウル』のストーリーは、前半と後半で、物語の進むペースが違います。これが前半です。
こんなふうに、Aパート、Bパート、Cパートというふうになっているんですけど。普通の宮崎アニメというのは、この次のDパートまでで終わるんです。
だけど、これを見てもわかる通り、Aパートが2行、Bパートが3行、Cパートが4行と、話が進むごとに語られる内容が多くなってくるんですよね。
この後にも、Dパート、Eパートまであるんですけど、後半は、もっと多くなってきて、もう、字の大きさが追いつかなくなって、こんな感じになるんですよ。
後半に行くに連れて、どんどん語ることが増えちゃってるんですね。これ、なぜかというと、宮崎さんが絵コンテを切っている時、Aパートでの1つ1つのカットが妙に長かったそうなんですよ。
普通、1カットにつき6秒くらいなのに、Aパートでは1カットが10秒以上ある。鈴木敏夫さんがそれを追求したところ「しまった!Aパートでのソフィーはお婆ちゃんだから、ゆっくり動くんだ! だから俺、ゆっくり描いちゃった!」と。
結果、Aパートでは、もう取り返しがつかなくなったので、そのままの尺で使うことになり、前半では1カット当たりの秒数がすごく長くなったんです。だから、物語の展開もゆっくりしてるんですね。
『ハウルの動く城』の展開が後半に行くに連れて早くなっちゃってるのはなぜかというと、「全体での1カットの平均時間を6秒に戻すために、1カットあたりの時間ががどんどん短くなったから」なんですね。だから、テンポアップするんです。
Aパートでは、主人公の帽子屋で働く地味な女の子のソフィーは、魔法使いハウルに会って、一目惚れします。しかし、荒れ地の魔女の呪いでおばあさんになってしまって、ハウルの城に行くことになります。
Bパートでは、ソフィーはハウルの城で掃除婦として働くことになります。そんな中、戦争が始まり、王に呼び出されるハウル。で、ハウルは髪の毛の色で落ち込み、ソフィーも落ち込む。
Cパートでは、かつての恩師サリマンも荒れ地の魔女もどっちも怖いハウルが、ソフィーに「自分の代わりに行ってくれ」と出頭を頼む。ソフィーが王宮へ行くと、一緒に呼ばれた荒れ地の魔女は、力を奪われて老婆になってしまう。
そして、サリマンとハウルが魔法戦闘をして、ハウルは逃げる。ソフィーは指輪の赤い光で、老婆と犬を城の連れ帰る。これがABCパート、前半までのストーリーです。
これ、やっぱり、全部、最初言った通り“ソフィーから見たお話の展開”なんですよね。一見、何が起こっているのか、わかりにくいんです。よく読み取ろうとすれば、ちゃんと何が起こっているか描いてあるんですけど。
なぜかというと、宮崎さんが「もうソフィーの恋愛に関係ないことは、全部切っちゃえ!」と、カットしたからなんですよ。例えば、『真田丸』っていうテレビドラマがあるじゃないですか。
この『真田丸』というのは、戦国時代を舞台にしているのに、織田信長の活躍とか、そういう部分を全部カットしてるんですよね。
普通、戦国モノだったら絶対にカットするはずのないものを、「真田信繁が見ていない」というだけの理由で、全部カットしてしまっている。
その代わり、信長が活躍した時代から大阪夏の陣まで、真田信繁という1人の男の子が武将になるまでの間を、全て信繁の目を通して描いているんです。なので、戦国の基礎知識がないと、わりとわかりにくいドラマになってるんですよ。
有名な本能寺の変ですら、真田丸の中ではナレーションだけで説明されたんです。そして、『ハウル』に関しては、このナレーションすらもカットされてるんですよね。というか、ナレーション自体、全く使われていません。
つまり、『真田丸』に出てくる信繁のガールフレンドの“桐”という女の子が体験したものだけで、戦国時代を語っているようなものなんです。
おまけに、ナレーションも入っていないから、歴史の流れというのも見えないし、唐突な展開が連続する、ご都合主義に見えちゃうんですよ。
で、ここからが大事です。このソフィーの視線の外にある『ハウル』の世界というのを整理するために、この世界で起きた出来事を時系列順に並べたものを作ってみました。このプロットを見れば、全体のお話が、絶対にわかりやすくなります。
今からこれの一番上から解説していきます。『ハウルの動く城』の世界の出来事を、時系列順にプロットとして整理すると、どうなるのか?これも、スクリーンショットを取るなりして、楽しんでください。
まず、「隣の国、魔法使いが王国を作る」ということがありました。さっきも言ったように、魔法使いが魔法王国を作ったんですね。王子が魔法使いだから、王家の人間が魔法を使えるという“魔法先進国”です。
これに対して、ソフィーの国は魔法と科学で対抗しました。さっき言ったように『進撃』のマーレみたいな国なんですね。そして、次に「ハウルの叔父、魔法書を書きかけて死ぬ」ということがありました。
ここはプロットとしても大事な箇所です。どういう意味かというと
これは、子供時代のハウルの家にタイムスリップしたソフィーが目にした、机の上の様子を描いた絵コンテです。
よく見てみると、机の上には原稿のような紙の上に“文鎮”が置いてあります。この戦艦の形をした文鎮には、ハウルの城についている砲台とか、ハウルが好きなものが全部付いている。
なので、僕は最初、この文鎮はハウルの持ち物だと思っていたんですけど。でも、ハウルはこの時、まだ10歳くらいの男の子なんですよ。なので、こんな文鎮を持っているとは思えない。
そして、この絵コンテには、「机の上、書きかけの草稿」と書いてあります。この“草稿”というのは何かというと「出版を予定しているけれど、まだ出版されていない原稿」のことです。
つまり、これはハウルが言っていたように、死んだ魔法使いの叔父さんの遺品なんですよ。魔法使いだったハウルの叔父さんは、魔法の本の原稿を書いていたものの、出版する前に死んだんです。
出版する前だから「草稿」と書かれているんですね。では、なぜ未発表のまま死んだのかっていうと、おそらく、叔父さんは殺されたから。誰が殺したのかというと、隣の国の王家なんですよ。
理由は「魔法を文字にして出版しようとしたから」です。そういうことをされると、自分たちの国の優位性がなくなるから、妨害工作として殺されたんでしょう。
その結果、ハウルというのは隣の国を憎むようになります。ここは押さえておかないとダメなんですよ。でなければ、ハウルが誰を憎んでいて、誰と戦っているのかわからないんですよね。
「え? サリマン先生の敵なの? 味方なの? それとも隣の国の味方なの?」って、いったいハウルはどっちの国の味方なのかわからなくなるんです。でも、よく見ると、ハウルというのは、誰彼構わず攻撃しているのがわかるんですよ。
これはなぜかというと、自分の叔父さんを殺した隣の国も憎いし、自分を縛ろうとしているサリマン先生も憎いから。そんなふうに、周り全てが敵になっている状態なんですね。
ハウルのこういった内情は、まず「彼の叔父さんは、魔法書を書きかけて死んでしまった」という部分を押さえないと、ちょっとわかりにくいんですね。
次に、3番目です。これも映画本編には出てきてないんですけど、「ハウルの国の国王が隣国の魔法を警戒して、サリマンに王立魔法学校を作らせる」。ハウルはここに入学します。
そして、4番目、「星が落ちた夜に、ハウルは星の子を助けて契約する」。で、ここポイントなんですけど、「“ソフィーにより”その星の子はカルシファーと命名される」。
実は、星が落ちてきて、ハウルと互いの心臓を共有する契約を交わした時、過去に戻っていたソフィーは、ハウルとカルシファーに聞こえるように「ハウル! カルシファー! 私はソフィー! 必ず未来であなたに会う! 待ってて!」と呼びかけるんですね。
この時、ハウルとカルシファーとの契約が発動中だったのに、ソフィーの声は2人に聞こえちゃっているんです。だから、劇中でも、カルシファーとハウルが、ソフィーの方にちゃんと目線送って見ている描写が入っているんですね。
つまり、あの段階で、ソフィーもカルシファーとの契約の一部に入っている。あの時、ソフィーが呼びかけたからこそ、カルシファーという名前がつけられたんだということを、宮崎駿はちゃんと描いてるんです。
だけど、こうやって順番で並べてくれていないから、なかなかわからないんですね。5番目は、「力を得たハウル、サリマンより逃亡」です。この時、サリマン先生は後に車椅子での生活を余儀なくされるほどのダメージを負います。
ここから、サリマン先生のハウルに対する憎しみがわかるんですけど。ハウルは、カルシファーと契約して力を得たことによって、王立魔法学校から逃亡したんですね。
もちろん、サリマンさんは逃亡させないようにするんですけど、その結果、2人は戦うことになります。なぜ、サリマン先生が車椅子に乗っているのかというと、あれは別に、雰囲気を出そうとしてやっているのではないんですよ。
その後のハウルとの確執とかを見るに、「ああ、ここの戦闘で、少なくともサリマン先生はそれくらいのダメージがあったんじゃないかな」という描写なんです。
そう考えると、全体のお話も繋がりやすいというふうに思います。このサリマン先生というキャラクターは、描写からいって一筋縄ではいかないんですよ。
ソフィーが王宮に行った時に、「ハウルはこのままではいけません。あの人は困った人です」と言うんですけど。この時、持っている杖で顔の半分隠しながら喋るんですよ。
これは「悪役は顔を隠す」という法則の通りで、サリマン先生って、悪どいことをしている時は、杖で見ている人間の視界を遮りながら話すんです。
まあ、あれには、たぶん杖を動かしながら、軽くソフィーに暗示の魔法をかけるという作用もあると思うんですけど、とにかく悪そうです。そんなサリマン先生なんですけど、彼女が車椅子に乗っているのは、ハウルとの第一次戦闘の結果なんですね。
6番目です。「50年前、ある女生徒がサリマンの元から逃げて、荒地の魔女になる」。そして、7番目、「サリマンのムスカ化」。つまり、小姓を作ったり、人を犬にしたりと暴走を始めて、魔法を強化したり、
反対に無力化する科学研究が、この国で進み始めます。8番目、「ハウルは荒地の魔女を誘い、惚れさせて逃げる」。自分から「面白そうだ」と荒地の魔女に近づいて、怖くなって逃げます。
これによって、彼女の恨みを買うことになります。これ以後、ハウルは同様のことを女の子に対して繰り返しするようになる。9番目、「サリマン、隣の王子を魔法で襲撃し、カカシにする」。
これを僕は“サラエボ事件”と書いているんですけど。基本的に、『ハウルの動く城』というのは、第一次大戦を描いた話なんですよ。
なので、サラエボ事件で、オーストリアの皇太子が襲われて、その結果、戦争が始まったように、劇中で起こっている戦争の直接的な引き金というのは、元々、サリマン主導によって起こされた、
おそらくは当時最強の魔法使いの1人だった隣国の王子に呪いをかけて無力化する、電撃作戦の一種だったんだと思います。そして、10番目、「隣国との戦争が始まる」。これが第一次大戦ですね。
サリマンは、ハウルの魔法力を取り戻そうとします。この戦争について、物語のラストでハウルが戦う時に“国同士の総力戦”というのを見せているんです。
ハウルが空から下を見ると、兵隊たちが塹壕戦で戦っているのが見えるんですよね。つまり、悪夢のようにいつまでも終らない国同士の総力戦、潰し合いの戦争である第一次大戦が、あそこで行われたのがわかります。
そして11番目。「指輪の導きで、ハウル、ソフィーと会う」。これ、本当に気がつきにくいんですけど。これは、ハウルとソフィーが始めて出会うシーンのことなんですよ。
ソフィーが兵隊の兄ちゃんに誘われて困っているところへ、「やあ、待った?」ってハウルが出てくるんですけど。この時、ハウルが伸ばした右手。ソフィーの肩に掛けた指先で、指輪が赤く光っているんですね。
このハウルの持っている指輪が赤や青に光る時というのは、お互いを呼び合っている時だけなんですよね。つまり、これはハウルにとっても“運命の出会い”だったんですよ。
もう覚えてないくらいはるか昔に「私はソフィー! いつかあなたに会いに来る!」と言っていた女の子に、やっと出会えたという場面なんです。だけど、ハウル自身は、それに全く気が付いてなくて、ただ単にナンパしてると思ってるんですね。
ただ、「この時、指輪だけがそれを知っていて光っている」ということで、それを見ている人に教えようとしているんです。
なんかね、こういう「ハウル自身もソフィーが運命の人だと気がついていない」というところが、宮崎駿のわかりにくいロマンティシズムなんですよ。
「そこまで気づけと?」(コメント)これね、コンテでも「指輪が赤く光る」って書いてあるだけなんですよ。だから、僕も本当に見落とすところだったんですけど、
「なんかへんだな?」って思って考えたら、「ちょっと待てよ。この指輪が光る時というのは、お互いが呼び合っている時だっていう法則があるじゃん!」と思って、やっと気がついたんです。
『ハウルの動く城』の世界で起きた出来事を時系列順に並べてきましたが、ここからやっと本編が始まります。ここから先に、劇中で語られる物語が始まるんですけど、それが終わったらどうなるのか?
まず、「隣国の王子が故郷に戻り、サリマンは降伏文書に調印」ということが起こります。サリマンさんは、ここで「しょうがないわね。このくだらない戦争を終わらせましょう」なんて、余裕たっぷりに言うもんだから、
まるで平気の平左みたいに見えるんですけど、彼女は“ムスカ”みたいな人間なんですよ。見た目はオバサンで、声は加藤直子ですけど、中身はムスカなんですよね。
なので、彼女が送ったのは“降伏文書”なんですよ。だって、国土をあんなに焼かれてるんですから。そもそも、冒頭の港のシーンで、町のみんなから「行ってこーい!」とか「勝ってくれー!」という歓声を浴びながら出向した艦隊が、
帰ってきた時には沈みかけた軍艦が1隻だけになっているような戦争なんですよ? こんなの、第二次大戦の末期、昭和20年頃の夏の日本とそっくりじゃないですか。だから、あれは「降伏条約に調印しよう」という意味なんですね。
その結果、膨大な賠償金によって、国家の経済は破産してしまいます。エンディング後のハウル達が、なぜ、空に行ったのかというと「あれ以上、あの国にいても、買い物はおろか、まともな生活が出来ないから」です。
第一次大戦後のドイツとそっくりの状態になってしまうんですね。そして、その数年か数十年後、再びサリマン達は戦争を始めます。つまり“第二次大戦”を始めるんですね。
これは、最後の最後、「雲の切れ目から飛行機械が飛んでいるのが見える」というカットです。サリマン先生が「仕方ないわ。この戦争をやめさせましょう」と言った後、
この飛行機械のカットが映り、カメラが上にパンすると、今度はハウルの城が飛んでいるのが見える。このシーンを見て、「ああ、戦争から飛行船が引き上げているんだ」ってふうに、ついつい考えちゃうんですけど。
よくよく見ると、空から見える地表が緑色なんです。ついこの間まで、国土は全て焼き尽くされていたんだから、こんな緑色の大地に戻っているはずがないんですよ。ということは、「これは終戦から10年後、20年後の話だ」ということなんです。
つまり、これまた第一次大戦後のドイツと同じで、このカットは「10年後、20年後に、かつて戦争で散々やられた国が、もう一度、力を取り戻して、他所の国への侵略を始めた。人のやることは変わらない」というメッセージなんですよ。
これに関しては、鈴木敏夫自身が、2005年の1月号の『サイゾー』という雑誌のインタビューで答えてます。鈴木さんは、インタビュアにこう聞かれます。
「あんなにあっさり戦争を終わらせてしまうというのは、安易なんじゃないですか?」と。すると、鈴木さん珍しく声を荒げて、インタビュアを怒りつけます。
あなたは最後のカットをどう見たの?飛行機が飛んでたでしょう?つまり、宮崎駿は「また新たな戦争が始まった」ということを描いてるんです!あの飛行機は「戦地から帰ってきた」んじゃないんです!
「また戦争に向かっている」んですよ!こんなこと、鈴木さんは滅多にしないんですけど、「それはこういう意味だ!」と、ハッキリ言っているんですね。
「サリマン達が降伏文書に調印したことで、一度は戦争も終わったんですけど、その数十年後には、また戦争が始まるんだ」と。これがわかりにくい理由は、「その直後に映されるハウルとソフィーの年齢が変わってないから」なんですよね。
だから、サリマン先生が「やめにしましょう」と言った直後の光景だと、僕らはついつい思っちゃうんですけど。違うんですよ。ハウルはもともと魔法使いで、見た目は自由自在。
そして、この時点でのソフィーも“魔女”なんですよ。魔女だから、若いままの姿をしているだけで、実は、最後の空飛ぶ城のシーンは、物語から何十年経ってるかわからないという世界を描いているんですね。
こういった全体の流れというのがわかっていると、『ハウルの動く城』というのは、すごく壮大な物語であること、そして、そんな大河ロマンの一部分をソフィーの視点だけで切り取って見せるという、かなり実験的な映画だというのがわかると思います。
「これをわかれと?」(コメント)その意見に関しては、僕もその通りだと思います。「確かに、宮崎駿はやり過ぎてる」って。ここに関しては、正直、明らかにバランスが狂っちゃってるんですよ。
というのも「恋愛モノだということで切ってしまっても、これくらいのことはわかるだろう」という理由の他に、
「もっと無意識の領域で作った『千と千尋』などの作品で矛盾点をいっぱい突かれて嫌だったから、本当は全部考えてるんだけど、何も考えてないことにしよう」と思い切っちゃったというのがあるからだと思うんですけど。
さっきから言ってるように、『ハウルの動く城』というのは、ものすごく綿密に設定が組まれた作品なんですけど、宮崎さんは、それを一切説明しようとしていない。
宮崎さんとしては「恋愛モノには、そんなの不必要でしょう?だって、第2次大戦中の恋愛ドラマを描こうという時に、第二次大戦に関する膨大な知識なんか必要ないじゃん!カッコいい恋愛が描ければ、それでいいじゃん!」って言ってるんです。
だけど、いくらなんでもこれは説明しなさ過ぎだと思います。「これだけのプロットを作ったんだから、ちゃんと言ってよ!」って思うんですけどね。
最後、魔女のソフィーと魔法使いのハウルは、空飛ぶ城で、自分たちだけは歳を取らずに優雅に暮らします。「地上には干渉しない」ということですね。ここでのソフィーは、黒いリボンが示す通り、魔女になってるんです。
空を飛ぶ城でのラストというのは、『ラピュタ』と逆なんですよ。『ラピュタ』で「人は大地に帰らなければいけない」と言った宮崎駿が、20年後には「もう、空で暮らしたらいいじゃん!」って言うくらい考え方が変わってきているんです。
『ハウルの動く城』の中では、重力は必ず“老い”の象徴として使われているんですよね。だから、歳をとると身体が重くなるし、魔力が失われていくと荒れ地の魔女も階段も登れなくなっていく。
必ず、人が老いることと身体が重くなることをワンセットで語っているんです。じゃあ、なんで最後に城が飛ぶのかというと、
「老いの世界からも解放されたハウルたちは、いついつまでも空の上で幸せに暮らしました」という究極のハッピーエンドを描こうとしたからなんですね。同時に、ちょっと見逃してはいけないのがここです。
これは、最後のハウルの空飛ぶ城を俯瞰で映したシーンなんですけど、1つだけ不自然なものがあります。本を読んでいるお婆ちゃん。犬のヒンと遊ぶ子供のマルクル。
その横には洗濯物が干してあるという、一見すると自然に見える光景です。でも、端の部屋に立っている“旗”だけが不自然なんですよ。この旗には、りんごの木みたいな木が描いてあるんですけど。
これだけ、別にここになくてもいいものが描いてあります。しかも、妙に意味ありげなんですよね。僕、「これ、何かな?」って思ったんですけど。その答えは、あまり深く考えなくてもよかったんです。これは“ダジャレ”なんですよ。
この旗に描いてあるのは「りんご」ですから、これはつまり「隣国」の旗なんですね。どういうことかというと、「いずれ私は帰って来ます」と言った隣国の王子様が、このシーンの時点では帰ってきていて、この部屋に住んでいるということなんですよ。
ソフィーというのは、最後、自分の気に入った人全員を自分の家の中に取り込んで“家族”にしてるんです。本来だったら、家族っていうんだから、妹とかお母さんも呼べばいいのに。
だけど、それらを全てを除外して、自分が好きだと思った人、キスを与えた相手のみを家族として、この時間が止まった幸せな世界の中で、永遠の時を生きる。
つまり、これは宮崎駿の「それが女の子の究極のハッピーエンドでしょう?」っていうメッセージなんですよ。
だけど、この平和な日常を描いた風景の中に、隣国の王子様まで描いちゃうと、流石にものすごくエグいことになるので、ここでは旗だけを見せているんです。
ここまででプロットから全体構造の説明を終わります。やっとこれで無料放送が終わりなんですけど。
後半の有料放送では、「実は『ハウルの動く城』というのは、ソフィーを含めた3人の魔女に振り回されるハウルの物語である」ということを話します。
つまり、「サリマン先生、荒れ地の魔女、最後はソフィー。この3つの魔女とハウルがどのように関わってきたのか? どんな男の物語なのか?」というのを説明しようと思います。
最初にも話した通り、僕はこの作品を、ルパンについて行ってしまったクラリスの話でもあり、もう1つの『まどマギ』でもあると考えていますので、そこら辺を解説しようと思います。
じゃあ、無料はここまでなので、アンケートを出してください。すみませんね、今回、ものすごく大量に情報があるもので、かなり早口になってしまいました。
もう、『ハウル』を見ているという前提で話すしかないから、こういうふうになっちゃうんですよ。『火垂るの墓』や『かぐや姫』の時もそうだったんですけど、みんな、ジブリ作品を“表面層”だけで評価しようとするんですよ。
そうすると、変に感動できる時もあるし、辻褄が合わないと思う時もあるんです。では、結果を出してください。…はい、ありがとうございます。後半では、もうちょっと怖くなっていくと思います。
では、これからのラインナップをおさらいしましょう。来週の8月19日は、林修さんが言い出した“友達不要論”の検証みたいなものと、あとは質問コーナーをやりますので、掲示板にどんどんお便りを書いてください。
8月26日は、『トトロ』をやってみようと思います。9月2日は、一応、ロケット特集第1弾として、フォン・グラウンの生涯みたいなものを追い掛けてみようと思います。
9月9日は、『ホモデウス』という本が、もうすぐ出版されて、大評判になると思いますので、それの先駆けをやってみようと思います。目指しているのは1ヶ月で5千円以上の講義ですので、どうぞ後半も参加してください。
明日から、僕はサンフランシスコにある“ディズニー・ファミリー・ミュージアム”というとこに行って来ます。ディズニー・ファミリー・ミュージアムというのは何かというと。
ディズニー社を倒産させないために、ディズニー社は1980年代の末辺りにディズニー一族を社内から追い出したんですね。
それに怒った一族が、ウォルト・ディズニーとか、ロイ・ディズニーの遺品を集めて、サンフランシスコの海の近くに作ったミュージアムなんですけど。ここがまあ、なかなか濃い博物館なんですよ。
そこへの取材として行ってきますので、まあ、お土産話も期待してください。それでは、後半に切り替えてください。
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